甘い言葉が欲しい。たまにはそういう時があるものだ。
その日の薔薇十字探偵社は、比較的穏やかな昼過ぎを迎えていた。 来客の予定がたまたま無かったせいもあるが、一番の理由は、主である探偵が実家に召喚されていた事だろう。室内の空気を乱す存在が居なかったのだ。 汗をかいたグラスの中、麦茶に浮かんだ氷がカラン、と涼しげに鳴いた。益田はうちわを片手に報告書と睨めっこを続けている。決して不快ではない。しかし、明らかに停滞した空気が、意味も無く益田の周囲のそこかしこで小さな渦を作っていた。
「ごめんください――その、榎木津さんはいらっしゃいますか」
そんな中、突然ドアベルの音と共に聞こえてきたのは、若いくせにトーンの低い馴染みの声だ。 静寂を破ったのは意外にも、めったに此処へ寄り付かない(正確に言えば、来る必要も暇も無いはずの)青木だった。
二言三言おざなりな会話を交わした後、「先輩の用事」とやらで探偵社を訪れたらしい彼を、益田は上から下までねめつけた。 そして、小さく息を吐き出す。
「残念ながら、青木さん。うちの探偵は今、此処には居ませんよ」
いかにも卑屈に見えるよう、軽く首を傾げていやらしい笑いをその口元にのせる。青木がぴくりと、不快げに眉をひそめるのが分かった。もっと嫌な顔をすればいい、と益田は密かに思う。
(榎木津さんのこと、本当は苦手なくせに)
木場の頼みなら何でもやりかねない青木の態度が、今日の益田には妙に癪に障った。仮にも青木は刑事だ。こんな所で油を売っていて良いものか。 益田はわざと勿体ぶって、悠然と安和を呼んだ。
「和寅さぁん! あのおじさん、いつ帰ってくるって言ってましたっけ?」
益田の声を受けて、台所の奥から安和が出てきた。ちょうど洗い物をしていたようで、前掛けで軽く手を拭きながらこちらにやってくる。 安和は青木に如才ない挨拶を済ますと、益田に向かって少々居丈高な口調で言った。
「そんなの分かるわけないでしょうが。あの人に我々の一般常識は通用しません、一度出て行ったらなかなか捕まりゃしません」
「…と、いうわけです。諦めて木場さんとこに帰ったらどうですか」
ね? と、親切ぶってそう勧めると、青木は複雑な顔をして、そうですかと呟いた。
「確かに。榎木津さんが居ないんじゃ、此処に留まるのも意味が無いね。すいません和寅君、僕はこれで失礼します」
安和に向けて軽く頭を下げてから、青木はさっさと踵を返した。 益田には目もくれない徹底ぶりだった。 青木が消えたドアを暫く見つめていた益田は、客人の接待をし損ねた安和が完全に台所に戻ったのを確認してから、ふいにノブを回して外に出た。
「青木さん!」
階段を半ば降り終えかけていた青木の背中に向かって、益田は大きく声を張り上げる。 気だるげに振り返った男の姿は、入り口からの逆光を受けて、まるで黒く切り取られた影絵のようだった。
「何だい。帰れと言ったのは君だ――益田君」
そう言った青木の表情は、益田側からは全く読み取れない。だから、声だけでその意図を探ろうとした。 嫌悪というよりも、純粋に迷惑がっているような声音。しかし、そこに他の意味を見出したくなる自分の浅はかな欲求を、益田ははっきりと感じた。
(ああ。僕はなんて、)
「…馬鹿だな」
青木に聞き取られないよう、ごく小さな声でぽつりと漏らした。 振り向いた姿勢のまま微動だにしない青木に、彼は当初言おうとしていた普段の皮肉ではなく、その時感じた率直な気持ちを言ってみることにした。
「青木さん、次は僕に逢いにきてくださいよ」
「――…」
しばし逡巡する気配。次いで投げつけられた言葉は、益田の予想していた通りのものだった。
「君の戯言は聞き飽きたよ。次はもう少し、マシな冗談を考えてくるといい」
ああ、そうですねと、益田は乾いた口調で返す。分かりきった展開を嘆くほどの素直な愛情は、あいにく持ち合わせては居なかった。
甘い言葉が欲しくなる時もあるのだ。ただ、それだけのこと。
end.
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