背筋を這うそれが不快感であるとようやく気づいたのは、未だ白紙のままの原稿用紙に、額からぽたりと汗が落ちた瞬間だった。同心円状に広がった丸い染みを呆然と見つめたまま、私はいつものように意識を飛ばしかける。 以前筆は止まったままだ。 一向に始まらぬ物語に焦れるでもなく、ただ諾々と時が過ぎてゆくのを見つめている。彼岸に片足を突っ込んだまま生きている私のような人間にとって、その感覚はひどくしっくりと馴染む。この、もやもやと内にわだかまるものを上手く表現出来たら、どんなに良いだろうか。
「結局私は、とても怠惰で卑怯な人間なのだろうね」 「うへぇ、先生またそんな事ばかり言って。悩んでる暇があったらさっさと原稿上げてくださいよぅ」
ほとんど独り言に近いその呟きを、私の真後ろに座す男が、間抜けな第一声と共に受け止めた。鳥口だ。 締め切りはとうに過ぎている。勤勉なるカストリ雑誌の青年編集者は、楚木逸巳のくだらぬ三文記事を受領すべく、先日から私の宅へ日参している。
「もうね、先生、いい加減にしてくれないとこっちも困るんです。仏の顔も一度までって言うでしょう? ホトケ様の顔はそういくつもありません。我々だって余裕なんか無いんですからね」 「わざと言ってるだろう鳥口君。雪絵も今日は居ないし、いつまでもそこに座っていたって何の特にもならないよ。悪い事は言わない、さっさと帰りたまえ」
うへぇ、と後ろから気の抜けた声が聞こえてきた。気が滅入る。 彼の事は決して嫌いではない。しかし、この青年の瞳は全てを見透かしてしまいそうで、稀にひどく恐ろしく感じる時があるのだ。 鳥口は見るからに善良そうではあるが、“善良な青年”はあんな目をしてこちらを見つめてきたりはしない。
(あんな目、とは、何だ)
自分の頭に浮かんできた言葉に違和感を覚えた。しかしその理由を探る前に、私は視線を感じて振り返った。 よせばいいのに、振り返ってしまった。
「…鳥口君」 「何ですよ先生、その顔。まるで師匠にやり込められた時みたいな顔して」
師匠――京極堂か。 妙に納得しながら、ずきずきと痛み出したこめかみを軽く押さえる。敦ちゃんといい鳥口といい、何故こうもあの男に似てくるのか。
「先生?」 「………」
雪絵はまだ帰ってこない。
end.
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