京極 | ナノ



 嫌な夢を見た。



 詳しい事は覚えていない。
 ただ、ずくずくと身体の内側から腐っていくような、生理的な嫌悪感だけが生々しく残っていた。汗でぐっしょりと濡れた寝巻が不快で堪らない。
 重たい体を引きずるようにして布団から這い出すと、私はもたついた動作で障子を開けた。瞬間、初夏の清々しい風が室内に入り込み、澱んだ空気をかき交ぜていく。虚ろな二つのガラス玉に、快活な陽光と新緑が容赦なく映し出された。



 嫌な夢を見た。
 脳髄の奥でざわざわと、記憶が胎動しているようだった。



 あの日の女が密やかに笑っていた。紅に染まる女が。
 黒衣の男は眉ひとつ動かさずに、彼女と私を見据えている。
 私の世界は赤と黒の二色で満たされていた。歪んで沈み、また浮き上がって。
 そうして夏は終わり、私は未だ此処にこうして―…


「タツさん? 朝ご飯の支度が出来ましたよ」


 ハッ、と我に帰る。恐る恐る振り返ると、にこにこと穏やかな笑みを浮かべた妻がそこに居た。
 地味な紬の着物に、少しくたびれた前掛け。襷掛けされた袖からのぞく白い腕を目にした途端、私の背に冷たいものが走った。
 あれは、誰の腕だ?

「タツさん、どうしました? お顔が真っ青ですよ」

 ああ、だとかうう、だとか呻いて、私はろくに返事も出来ずに俯いた。慌てて駆け寄ってきた妻の手が、汗ばんだ私の額に触れた。
 ――ああ、温かい。

「熱は無いみたいですけどねぇ」
「…雪絵」


 例えるならば、ちょうど先刻の。快活な陽光と新緑のような。
 私の中に入り込む余地も無いはずの色が、私を不安定にさせるだけのそれが。

 何故こんなにも愛おしいのだろう。





end.



赤と黒、時々緑(関雪)



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