マイフェイバリットソング | ナノ

 ────もしも、俺がいなくなったら、どうするんスかね。

 そんなことをふと思ったのに、特別な理由はない。尋ねてみようとも思わない。
 逆のことを、彼女が俺に問うたなら、俺は首を横に振る。信じられないと。あんたがいなきゃあダメなんスよ、そんなぽつりぽつりとした流れ言葉。すると彼女は、わらう。からりと、わらうのだ。そうして深い深い、さきのさきへ。俺を置いてたったひとりで歩いていく。俺がいなくなったら独りぽっちっスよ。笑えない。おれは、わらえない。
 あんたを知ること。それは俺にとって必要なことだが、彼女はいやなこと。それでも知りたい。言えば、彼女はばかみたいだとか、ありえないだとか、俺にしか判断できないはずのことをまたひとつひとつ捨ててゆく。
 からり、からり。グラスのなかに氷をふとひとつ落として、まわして、融けてしまうまでの小いち時間を飲み込む。
 彼女にとってそれは、呼吸をするほどに、鉛筆を転がすよりも簡単な作業なのだ。確実に、確実に、ゆるりと、半円を心臓に埋め込む。刻まれた日付なんて知ったこっちゃないのよと、困ったように眉を下げる。それだけ。俺にとってそれは世界の淘汰にひとしいほど難しい作業で、そのたびに、わめく。たえだえの声をかき集めて、積み立てて、積み木崩しの要領で。
 真ん中をつんとついて、世界を割るのだ。
 崩れて床に散らばった欠片をまたあつめるのは、おれの仕事。でもまた彼女はそれを崩す。さも当然であるように、つみきも、おれたちのレールでさえはずして、くずして、地上にころがす。
 春を肺いっぱいに詰め込んで、夏をおよいで、秋を燃やしたとおもえば、冬にはしろに沈む。彼女は自分をないがしろにする、自己愛者だった。俺は彼女ほど、自分を愛することをうまくやってのけるひとを知らない。死にたくない。そうおもえるということはつまり、あんたは自分がすきだっつうことだよ。
 驚くね。錆び付いたいとを吐き出しては、彼女はにんまり、本当ににんまりと。わらうのではない、泣くのだ。喘ぐのだ。まるで世界の裏側、知らないじぶんを抱き締めたときのように。
 崖に咲く花をとるときは、いつだって一緒だろう? でも、俺の体温をほどくなら、あんたはひとり。ひとりで、苦手な苦手なそのさきへ向かわなければならない。そうでなくてはならなくなるんだぜ。わらえないはなしなのだ。にんまり、泣くのと同じように。からりとわらうのと同じように。枯れたねいろ、枯れた声を押しかためて、ただひとりで。
 ひきとめるなんてできやしないとおれは知っている。でもあんたは、そのさきの、淡い空色の花に、淡い淡い恋をした。
 手を伸ばしたって届きやしない。高いところを、あんたが嫌いなことくらい、知ってるよ。知っているとも。それでもたどり着こうと必死なことだって、知っている。
 もう俺は、手伝えないんだぜ。あわく、ゆるく、繋いだ体温はほどけて消えた。残った森には、きみひとり。俺もひとりでいくから。あんたが行動力がある人間だってことは、俺がいちばんよく理解していた。だからこわくても、こわくても。あんたはゆくのだろうね。その崩れそうな積み木のうえ、空色を反射させる花のもとへ。躊躇いもしないことだろう。わかるかい、あんたにはわからないよね。俺がそれをどれだけ歯がゆい気持ちで見ているのかなんて。
 階段をくだってうさぎを追いかけるあんたと、一気に落ちていく俺と、差があるとするなら、そこだった。
 砕けて落ちて、また跳ねて。
 彼女の持った白濁が床に散らばる。けれど俺は、もうそれをかきあつめては、いけないわけで。踏み込んだそのおく、傾いた角度。みつめるひとみは涙に濡れて、対して俺は渇いている茶番。
 彼女は言う。「あんたとなら、」ってね。
 でもすぐに、こうとも言うだろう。「あんたとは生きられない」とも。
 ルイス・キャロルの描いた演劇は、ひとびとをひとつの廻転する世界から連れ出した。リメイクを撫でたいまのメディアとクリエイターたちは、そのうつくしさを知らない。そのむごさを知らない。
 穴のおくに出会う人間は、おとなでなくてはならない。けれど、こどもでなくてはいけない。矛盾がひとつ、頭をだす。泣く理由なんざ、あるはずもねぇのさ。それでも、彼女は涙をながすのだ。意味なんてない、わかったように季節彷徨しては浮き沈みをくりかえして。熱を渇望して。
 ひとつ、ふたつ、流れてくる感情。それをぜんぶ、ぜんぶ集めて、あんたにあげる。おれのぜんぶで、あんたを幸せにしてあげる。だいじょうぶ、俺なら平気さ。黄金の部屋が残っているからね。そう、きみといた、あの部屋さ。
 散る花びらを、そこに散らしてやってくれないかな。そうすれば、ひとりで森に、きみとは違うけれど、足を踏み入れられると思うのだ。
 からりと、きみはわらう。
 もしまた交われば、そのときこそ尋ねようか。

 ────もしも、俺がいなくなったなら。