(あいつが、俺に頼み事……)
那智はしかめっ面で唸った。何とか鈴鳴を振り切ったものの、咲の頼み事がなんであるかこれっぽっちも検討がつかない。
(俺じゃなきゃ駄目、か)
いつの間にか、書き物をしていた手がすっかり止まってしまっていた。これではいけないと頭を振るが、気が散ってしょうがない。筆を置き、後ろにひっくり返った。
(……大体、なんで俺に構うんだ。"あいつ"は)
――確かに、ここの連中は皆、間が抜けているというか、ある意味穏やかというか、命を受けて配属されたとはいえ、完全なよそ者である俺に対する警戒心が甘すぎる。特に、総隊長である狼の見張りの甘さは何なのだ。
配属初日の道案内を、あの一件から親しくなったらしい"あいつ"に任せるわ、自分に部屋を持たせるわ、金魚のフンのようにべったり張り付く人間さえも寄越さない。こちらとしては拍子抜けするどころか、逆に余計な神経をすり減らして疲れる。
――そもそも、だ。あいつは自分のことをどう思っているのだろう。後釜に収まった、政府から来た俺を。
「…………まあ、特に嫌ってはいなさそ、」
「那智さん?」
「おがっ!」
不意にひょい、と咲の顔が那智の視界の隅に入った。いつの間に部屋にいたのだ、那智は慌てて起き上った。
「っ、声ぐらいかけろ!」
「か、かけましたよ? だけど、返事がなくて…」
「だったら、一旦退け!」
那智は怒鳴った後、大きく息をつくと、胡坐をかいた。
「ったく…」
「すいません…。お忙しいのに」
しょんぼりと咲が軽く俯く。もしも、獣の耳が咲にあったのなら耳が完全に折れてしまっているところだろう。
そこまで考えて、那智は咳払いをした。
「で、何のようだ?」
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