「――花霞? 真琴さん、花霞太夫にお会いになったことがあるの?」

私の口から花霞の名前が出たことに、白菊が目を見張る。やはり、禁句タブーだったのかと私は身をちょっと引いた。それに気が付いた白菊が目を細める。


「いや、まさか、真琴さんが花霞太夫の名前を知っているとは思わなかったもので。どなたから、その名前を?」

「え、えーと、」

私は桃との一件が尾を引いていて、何となく言いよどんだ。白菊はそろばんを弾く手を止めて、私の返事を待っている。


流石に、その足で桃の手伝いは辛かろうと、結局、白菊の手伝いをしている。とはいっても、帳簿をつける彼の傍らにぽつんと座っているだけなのだが。

ただでさえ、申し訳ない状況だ。私はつっかえつつ、口を開いた。


「そ、その…、廊下でたまたまお会いして、足の手当をしてもらったんです」

「え、会った?」

「厨房近くの廊下ですけど」

私は首を傾げた。何故か、白菊は花霞という青い目の男がこの藍屋にいたということで酷く驚いているらしかった。


「彼が藍屋に…一体、何の用だというんでしょう?」

「? えーと…、同業の方が藍屋にいたら不味いんですか?」

「いえ…」

白菊は説明するか否か、一瞬躊躇ったようだったが、丁寧に説明してくれた。


「彼は紅屋の太夫なので、何か用でもない限りは藍屋に顔を出すことは通常はしません。仕事のことならば、番頭の僕が知らないのはおかしいし」

「確か…、野暮用だとか言ってましたけど」

「野暮用、ですか」

低く唸って考え込む白菊を見ながら、なるほどと合点がいった。


――つまり、藍屋と紅屋はお互い、商売敵であるわけだ。まあ、気が合わないというのも一理あるだろうが、店の看板である太夫同士が仲がよろしくないのもこれで頷ける。


「――白菊」

「!」

不意に戸の向こうから響く桃の声にぎくりとする。目に見えてあわあわと焦っている私に、白菊は目を不思議そうに瞬かせた。


「? どうかしました?」

「い、いえ、なんでもな、」

「――入るぞ」

返事も待たずに桃が遠慮なしに入って来たのを見た私は、あからさまに目を反らした。その反応に桃の微かに眉間に皺を寄せる。


「随分と早いじゃないか。お客様はお帰りに?」

「……ま、そんなとこ」

「また、怒らせたの?」

「違えよ」

苦笑交じりにそう尋ねた白菊に首を振って、桃はどかりと座布団に腰を下ろした。そして、胡坐をかく。


「……そんなことより、話ってなんだ?」

「再来月から売り上げが落ち込んでることについてだけど」

「なんだ。そんなことか」

原因は火を見るより明らかだと言わんばかりに、桃は鼻を鳴らした。


「紅屋の馬鹿共が、ここの道理ってのをわきまえずに荒稼ぎしてるせいだろ。そろそろ、他の楼主が騒ぎ出してくる頃合いだろうな」

「売り上げが落ち込んでるのは藍屋だけじゃないからね。それを踏まえても、この落ち込みは尋常じゃないよ」

白菊が桃の方に帳簿を差し出した。桃はそれを渋々受け取り、字面に目を走らせた。


「他の店の被害の比じゃないんだ」

「……楼主は何だって?」

「もう暫く、様子を見てみようってことになってる」

「事を荒立てたくないってか」

白菊が頷く。藍屋の主人は白菊ほど危機感を持ってはいないと見える。しかし、白菊と桃の顔を見ると、大分事は深刻らしい。私は、漢数字の並ぶ帳簿をちらりと見やった。

私が見ても何が何だか分からない帳簿に並ぶ数字は、私が普段目にしたことがないほどの大金を示していて、めまいがした。これで、売り上げが少ないと言っているのだから、普段はもっと稼ぐのだろうか。


「――ちょっと探りを入れてみるか」

「え?」

桃は何か企んだ笑みを浮かべた。白菊は目を瞬かせる。


「探りって、」

「勿論、紅屋にだよ」

白菊は呆れたような眼を向けた。


「誰が探りを入れるっていうの? 桃、紅屋の連中と顔を合わせる度に喧嘩してるし、何も話しちゃくれないと思うけど」

「俺じゃねえ」

「桃、あのね…、僕も誰かさんのせいで紅屋の連中から目の敵にされてるんだよ?」

白菊が額に手をやって、疲れ果てた顔をしている。桃を止める為に、毎度騒動に巻き込まれて苦労しているのだろう。私は白菊に同情の目をむけた。そんな中、桃がさもおかしいとでも言うように笑い出した。


「くくっ、お前でもねえよ」

「じゃあ、誰――」

「こ・い・つ」

桃が差すその先に座っているのは、私だ。一瞬、意味が分からなくて硬直した後、私は辺りを見回した。絶望的な期待を込めて。何度確認しても、この部屋には私と白菊、桃しかいない。


「お前が花霞…、いや、この際、誰でもいい。探り入れてこい」

「なっ、なんで、そん、」

何故、そんなことをしなきゃいけないのかと食って掛かりそうになった私の言葉は、途中で、ふつりと消え失せた。

桃が目を細め、無駄にひらひらと長い袖で頬を拭う。入念に施された化粧が取れて、赤みを帯び、腫れた痛々しい頬に目が釘付けになる。


「――行って来い」

「わ、わかった…。や、やればいいんでしょ…!」

私は叫ぶようにそう言って、拳を握りしめた。これから向かう地獄に、気が遠くなりながら。







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