それは、憎しみの目だった。敵をみる目だった。苦しげに歪められた目の中に映る己が、なんと滑稽なことかを思い知る。

どんな言葉を並べて取り繕っても、まだ信じていたのだ。――きっと、あの頃に戻れると。

――ああ、どうして、己はどこまでも甘いのだろう。どうして、残酷で愚かな期待を捨てられずにまだ、持っているのだろう。











「、っ!」

「……流石だね」


――僕の刀を片腕で防ぐなんて、さ。


綾都の目が暗く瞬いた。ぐ、と押される刀を痺れる両手で支えながら、狼は肩で息をする。綾都のいう通り、賀竜との戦いで酷く負傷したせいで、片腕は使いものにならない。一見、両手で支えているように見えるが、今はほぼ片腕一本で、綾都の刀を防いでいる状況だ。


「……でも、」

無邪気な笑顔を浮かべながら、綾都はさらに刀に力を込める。そして、余った方の手を懐に伸ばし、そのまま狼の肩目掛けて突き刺した。ぐしゃり、と嫌な音がして、狼は膝から崩れ落ちる。


「っ、ぅ…あ…!」

「油断したね。一体、僕が何のために腕を磨いたと思ってるの?」


――他でもない、貴方を殺すためだよ。


軽い音を発てて、血にまみれた棘のたくさんついた小刀のようなものが綾都の手から投げ捨てられる。狼の肩を食い破った、恐ろしい暗器だ。


「姫乃から習ったんだよ。……貴方から全てを奪う為に、他にもいろいろ習ったんだ」

「……綾…」

狼は荒く息を吐き、肩からおびただしい量の血を流しながら、綾都を見上げた。満身創痍の狼と目があった綾都の目が歪む。

「そんな目で…、僕を見るな! 貴方が…、兄さんがいたからっ!」


――希望を持ってしまった。いつか、ここから出られる。いつか、父が自分の存在を認めてくれる。いつか、皆が自分を愛してくれる。

いつかいつかいつか。きっときっときっと。


そんなはず、なかったのに。叶うわけがなかったのに。


――ふざけるな。そう、何度も何度も、綾都は繰り返した。その度に、切っ先が大きく揺れる。

狼は口元をきゅっと結び、握っていた刀の柄をを手放した。手から離れたそれは、地面を空しく転がっていく。

それを目で追った綾都が怪訝そうな色を浮かべた。


「――綾、」

口の端から滴る血を拭い、狼は少し咳き込んだ。喉に何かが絡まったような、嫌な音が響く。


「俺を……、斬れ」

「!」

――殺せ。そう言うと、袷の部分に手を差し入れ、肌蹴させる。血でべったりと汚れた肌が、不気味に赤黒く光っていた。


「……どうして、」

「――何も…、出来なくてごめんな。"綾都"」

「、うして……」

「ほんとうに、ごめん、…な……」

「どうして…!」

綾都は叫ぶように、掠れた声を発した。――その時、ゆるりと生暖かい風がひとつ、綾都の頬を撫でる。湿り気を帯びた、身体に纏わりつくような嫌な、風が。


綾都はまるで導かれるようにして、背後を振り返った。手を伸ばせば、届きそうな距離に転がっているもの。――それは、刀だ。


『――憎いのだろう?』

刀から声がした。掠れたような、囁く声が。嘲笑するような男の声が。

綾都はぎくりと固まった。


『お前は』

『恵まれた兄が』

『己と違って、愛された兄が』

『誰よりも』

『――何よりも』

『憎いのだろう?』


それは自分の頭の中で響いていた。山彦のように遠く、近くなりながら、それでも確かな形を持って。


『何故、迷う?』

『先まで、兄の命を吹き消さんとしていたというのに』

『何故、躊躇う?』

『やはり、兄が恋しいか?』

『愛しいか?』

『……恵まれた兄のすべてを、お前は憎んでいるのだろうに』

『憎んでいただろうに』

「、っ! 煩いっ!!」

綾都は手を伸ばし、その刀を掴んで地面に打ち捨てようとした。――が。


すっと目の前が暗くなった。意識が暗転し、奈落の底へと沈んでいく。誰かの声が呼ぶ。けれども、抗えずに沈む。深く深く。ああ、戻れないと耳鳴りがする。


一寸の先も見えない漆黒の闇の中で、おぞましい何かの声が愉しげに囁いた。



『忌み子、鬼の子』

『――その魂、貰ろうたぞお』



刀を抜く音が、薄れゆく綾都の意識が聞いた最後の音だった。






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