「――兄さんみたいになりたいなあ」
いつか、兄さんみたいに。
――そう、無邪気に笑っていたはずなのに。
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「随分と賑やかじゃないか、姫乃」
「! 綾ちゃん!」
姫乃の口があわあわと開いたり閉じたりした。どうやら、予想外のことであったらしい。
「ここはあたしに任せ、」
「いいよ、そろそろ時間だし。……まさか、ここが突き止められるなんて思ってなかったけど」
戦場と化していた境内の石畳へと足をを踏み進める綾都の足元で、パキリと何かが砕けた。
その音で、狼はようやく、我に返った。――思えば、当たり前なのだ。"あれ"から、何年と経っている。綾都の横顔が自分の記憶より大人び、見下ろしていたはずの背も自分にぐんと近づいていても、なんらおかしくはない。
(……綾…)
突然、昨日のことのように思い出せたはずの、あの頃の面影が急に色褪せてしまったようにさえ感じられる。
狼は妖刀へと伸ばしていた手を止め、よろよろと立ち上がった。感覚がなくなっていたはずの傷ついた腕が、痛みを思い出したかのように急に疼き始めた。
「……驚いた。張り直した結界まで、全部解けてる。僕の腕も落ちたかな」
歩みを止め、辺りをぐるりと見回していた綾都は剣呑に目を細めた。そして、ふうと息をつく。
「――綾」
狼はおもむろに口を開いた。声は掠れ、聞き取りずらいものではあったが、綾都には十分、届いたようだ。綾都の暗い色の目が狼の視線とぶつかる。
「頼む。咲ちゃんと、静香を返してくれ」
「……」
綾都は風にあおられた頬に零れ落ちた赤い髪を耳にかけながら、続けた。
「……相変わらず、甘いなあ」
「……」
「頼めば聞いてくれると思ってるの?」
何かを堪えるようにそう続けた綾都の目が一瞬、狼の傷ついてだらりと下がった腕に向けられ、何か言いたげに唇が小さく動いた。が、それは言葉にならず、代わりに、綾都の口元に皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「あの二人は僕たちにとって切り札だからね。貴方は優しいから、静香さんを切り捨てるような真似はしないでしょう?」
咲は勿論、静香の命が操り師の手の内にある限り、疾風隊は無暗に動けない。しかし、神城は内心、ひやりとしたものを感じていた。確かに、普段の狼ならば静香を斬り捨てるような真似は絶対にしないだろう。……だが。
あの、狼を見たら。
何かに追い詰められたような、冷たい氷のような眼差しをした、あの獣のような狼を見たならば。
もしかしたら、という気持ちが神城の脳裏を過ぎたのも無理はない。
「……ずっと、夢に見てた」
ぼそりとした、だが、どこか恍惚とした綾都の言葉に不意に現実に引き戻された。それに重なるようにして、賀竜が続ける。
「――来るぞ」
その瞬間、微かに金属を滑らす、細い音が耳朶を打った。次に、続いたのは、赤い火花と、耳障りな金属音。
――赤色がうねっていた。
「狼!」
神城が気づいた時にはもう既に、綾都は腰の物を抜いていた。そして、そのまま神がかりな速さで狼の目の前に移動すると、刀を狼の肩口へと振り下ろした。
「――今、この時、この瞬間。長い間、僕は望んでた」
「、っ!」
「貴方が思うより、ずっと、ずっと前からだよ」
大きく見開いた狼の目に、映ったのは禍々しい赤色。反射的に構えられた刃が、嫌な音を発て爆ぜる。
「僕が貴方を憎んでいたのは」
「!」
……哭いていたのは、紛れもなくお前の方だった。
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