――自由など、この世に生を受けたその瞬間からありなどしなかった。
"影"には、僅かな自由すらなかった。
『――この名をお前が継ぐ時、私はもうこの世にはいない』
『せめて、お前が幸せであるように私は祈っているよ』
自分の思いさえ自由にならぬ世界で、どう幸せであれというのだろう。
……あの人は、優しすぎた。"影"になるにはあまりに真っ白で、純粋無垢過ぎた。
――だから、あの人はこの世にはいない。己の隣で、笑うことなどない。空の、もっと遠くに行ってしまったから。
「刀を寄越せ、疾風隊総隊長」
「――断る」
もう一度だけ、賀竜はそう問いかけた。だが、狼の答えは先程と同じく、断固たるものだった。
「フン…、頑固な男だ」
「あれには、人の命が掛かってる。渡すわけにはいかない」
「――ならば、」
賀竜は腕をしならせて、弦を弾いた。甲高い小さな音が空気を震わせる。
「力尽くで奪うのみ!」
「、っ」
狼の足元を抉るようにして飛んでいった複数の斬撃は、狼のすぐ脇を素通りして駆けていく。その攻撃の先には、妖刀、夜叉車を手にした神城がいる。
「神城! 行ったぞ!」
「はあっ!? いっ、行ったぞじゃねえって!」
夜叉車を両腕で抱えて、神城は慌てて地面を蹴った。そんな神城には見抜きもせず、狼は糸を操る賀竜の方へ猛然と突っ込んでいく。
次々とがれきを飛び越える神城の背後を風を斬る軽い音と足元の地面が抉れる音が追いかける。
「っ、任せとけみたいに言っといてこれかよ!!」
息を軽く切らしながら、神城はぼやいた。
いつも腰に下げているはずの刀は狼に貸してしまっているせいで、神城には武器になるようなものがない。まさか今、両腕で抱えている、この得体のしれない妖刀を抜くことだけは勘弁だ。
「右! 左! 回ってーっ、右!」
妖刀を左手に持ち替え、倒壊した屋根に手をついて、体を右手一本で支えると、低い塀でも飛び越えるように上手く着地した。そして、息つぐ暇もなく、時々蛇行しながら、賀竜の攻撃を交わしていく。まるで、軽業師のようだ。
賀竜は舌打ちをした。
「すばしっこい猿め…」
「――ああ見えて、」
賀竜の頭上に影が出来た。振り上げた狼の刀の煌めきにはっとする。薄暗い、狼の目が穏やかに微笑んだ。
「優秀なんだよ。うちの隊長たちはな」
「小賢しい真似を」
賀竜の腕が再び閃いて、風を斬った。その音に狼は静かに目を細めた。
「――俺には、会わなきゃならないやつがいる。そして、償うべき罪がある。……悪いな」
「! 貴様…、まさか、」
甲高い音が狼の左肩を掠めていこうとした、次の瞬間、狼の刀がひらりと舞った。その動きに合わせて、半纏の裾が翻る。
――一瞬、時が止まったかに見えた。
奇妙に力なく下がった狼の左肩から血が噴き出し、皮膚を深く傷つけ、腕に巻きついた透明な糸からぽたりぽたりと血が滴る。賀竜は目を見開いた。
「、っ! お、……か、ぜ…?」
「俺はどうなったって構わない。……あいつがこれ以上苦しまなくて済むなら、こんな命…、俺はいらない。俺は、もう十分だ――」
「狼っ!」
何してんだよ!と叫ぶ神城の声すら、今の狼には届いていない様だった。狼の目は異常に静かだった。
刀が静かに振り上げられる。
「……俺の邪魔をしないでくれ」
「鬼、」
賀竜は動けなかった。明らかに、狼の様子が先程と違う。そこには確かに、斬ろうとする意識、――人を殺そうという意識が宿っていた。
――その優しさが、やがて己を殺す。
確かに、その通りだった。この男は守りたいがために、己の手を血で染めてきた。その結果が、この男を追い詰め、鬼にした。
(……これで、気は済んだか?)
刃の閃きを他人事のように眺めて、賀竜は嗤った。
(……これで、満足か?)
ひとりの人間がまた、"鬼"に近づいた。……あの非情な男はなんというだろう。面白がるのだろうか。結構なことだと笑うのだろうか。
――…嗚呼、気分が悪い。
何もかもがあの男の思う通りに進んでいく。
最期だからだろうか。今日の己はやけに、感傷的だ。……くだらない。
「――止めろって、」
不意に入ってきた怒鳴り声が思考を中断させた。
「言ってんだろっ!」
「、っ」
前から強い力を受けて、賀竜はがくんと後ろに倒れこんだ。見上げるとそこには、賀竜を庇うようにして神城が立っていた。
妖刀の鞘で、狼の刀を受け止めて睨み付けている。
「……何やってんだよ? 殺す気か?」
「ああ、そのつもりだ」
「!」
狼は刀を引き、切っ先を下に向けた。
「お前…、自分が何しようとしてんのかわかってんのか?」
「……ああ」
「なっ、なんでだよ! こいつを殺す必要なんてねえだろ!?」
「賀竜は影だ。どこまででも追ってくる。それを手に入れない限り、ずっとな」
「だからって、」
「――神城。こいつは敵なんだ」
神城はぐっと詰まり、妖刀を狼に向けた。
「狼! いい加減にしろよ! お前、おかしいぞ! さっきから!」
「……おかしくない」
「俺の知ってる狼は人の命をそんな軽々しく奪うような…、そんなこと、絶対しねえ!」
「!」
「いい加減、目ェ覚ませよ! お前は、しねえったら、しねえんだ!」
「神城…。――俺は、」
狼が何かを言いかけたその瞬間、轟音と共に天に真紅の割れ目が走った。ミシミシと至る所で、木々が悲鳴を上げる。
「な、なん、――痛っ!」
神城は手に鋭い痛みを感じて、手を離した。からん、と妖刀、夜叉車が地面を転がった。
それに慌てて拾い上げようとした神城の手を誰かが強く掴んで制した。
「! な…、お前、」
「たった今、ここの結界が解けた。――それに触るな」
「はあ!? 何言、」
「……ならば、勝手にするがいい。狂い死んだあの役人のようになりたいなら、別だがな」
賀竜はふんと鼻で笑い、辺りを見回した。
「信じられぬというなら、周りを見てみろ。結界が破られたせいで、幻術も解けた。これだけ手の込んだ幻術となると、ここが操り師の本拠地…。――否、貴様らの探している者どももここにいるのだろうな。……それにしても、操り師が喉から手が出るほど欲しがっていたこの妖刀が、ここにあるとは皮肉だな」
ちらりと妖刀を見やって、賀竜は嗤った。神城は賀竜に言われた通り、辺りを見回した。足の踏み場もなかったはずのがれきの山は消し去り、古びてはいるが、建物は倒壊はしていない。痛んでいるところを修理すれば、まだまだ使えるだろう。
「ここが、操り師の…?」
「ああ。――! フ…、妖刀の匂いに醜い蛾が誘われて来たようだな」
「お、」
「、っ! ど、どうして、ここに…、いるの…?」
恨まれても憎まれても忘れられなかった彼女は、ただただ驚愕に目を見開いていた。
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