――何故……、
混乱する咲の耳にかすれた声が響いた。男の向こうに立っている綾都が目を見開き、呆然としている。
「そ、んな…、まさか……」
「そ。その、ま・さ・か」と男はからかうように言った。
「――つまり、このお嬢さんに聞いても無駄ってこと」
「っ、嘘だ!」
よろめきながらも、男に目もくれず綾都は咲に歩み寄ると肩を掴んだ。だが、それは幼子がすがるように弱々しい。
「!」
「ねえ、嘘でしょ…?」
「綾都さん…」
「記憶がないなんて、そんな馬鹿なこと…そん、なこと…」
――あるわけがない!と悲鳴を上げるように綾都は手に力を入れ、咲を揺さぶった。ぐらぐらと咲の頭が揺れる。
「、っ!」
「嘘だ! だって……、君は知ってる…! 知ってるは、ずなんだ…」
綾都の目に苦しさがよぎる。咲が嘘をついていないことも、男の言うことが偽りでないということも、本当は察しているのだろう。
綾都の手がぱたりと落ちる。底知れぬ絶望感で、肩が震えていた。その肩に手を伸ばし、男は優しく叩いた。
「……まあ、そう簡単に失えると思ったら大間違いなんだけど」
不意に男の目が金色に瞬き、骨張った手は腰の物に添えられる。そして、刀が静かに引き抜かれた。
その場に縫いつけられたかのように、咲はその場を動けなかった。
「――さて、失った記憶を取り戻すのに、一番手っ取り早い方法が何か分かる?」
ひやり、と咲の頬に冷たい感触が走る。男の向ける白刃が頬を撫でたのだ。
反応を楽しむように目を細め、唄うように言った。
「あれ? 分からないかな? ……すごく簡単な話だよ」
ゆっくりと咲の頬を行ったり来たりしながら、白刃が優しく撫で続ける。
背筋に悪寒が走り、指先が震えた。
刺すように鋭い男の目の奥は全く笑っていない。
――この男は、危険だ。
「……残念。時間切れ。正解は、」
……
君を、同じ目に合わせればいい。
いつの間にやら、すぐ近くにあった男の唇が耳元で囁いた。吐息が耳にかかる。
男は、思わず身を引こうとする咲の手を掴み、目を合わせた。
「……可哀想だけど、運が悪かったね」諦めなよ、と緩んだ男の口元が吊り上がり、弧を描く。
咲は震えながらも気丈に返した。
「、っ…! わ、私は…、諦めません!」
「ふーん。……そんなに"彼ら"のこと、信じてるんだ?」
「!」
男の言う"彼ら"は、おそらく、――疾風隊や火焔隊の皆のことだ。咲は心の奥に冷たい物が落ちるのを感じた。
……
それは、失うという恐怖。
「――君を助ける為に、"また"何人死ぬのかな?」
「!」咲は言葉を失った。男の問いかけが、やけに遠い。
綾都が息を呑む音が聞こえた。男の纏う空気が禍々しく、一変する。
「……や…め、」
耳を覆うとする咲の手を掴み直し、優しく囁いた。男の瞳が針のように細く長く、化物のそれに近づいていく。
「ね。また君のせいで、誰かが死んじゃうよ?」
「、っ…!」
「……それで、君は平気なの?」
その囁きは、深く咲の心をえぐり、蝕んだ。
咲は目を見開き、声にならない絶叫を上げた。拘束している男の手を振り払い、耳を塞ぎ、蹲る。
震える咲の背を優しく男は撫ぜ、微笑んで声には出さず言葉を紡いだ。
――お ち た、と。
「――綾之助くん」振り返る男に綾都はぎくりとして一歩後ろに後退した。
「ここは僕に任せて、戦闘に備えておきなよ」
「……」
「もうすぐ、居場所を吐かせられると思うからさ」
「……、分かったよ」
綾都は震えている咲にちらりと目をやったが、一つ頷くと出て行った。
「……」
男は刀を鞘に戻し、咲に向き直った。そして、おもむろに手を伸ばし、乱暴な仕草で頭を掴む。咲は払う気力も失ったのか、されるがままだ。
「……さて、と。手加減しなきゃね…」
面倒だが、己が手加減をしなければ、数分とは持つまい。思い出すことを身体が拒否しているのだ。無理に押し入ろうとすれば、気がふれるか、死んでしまうだろう。
「本当に同情するよ」
男は呟くと、目をそっと閉じた。
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