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桜が、淡い桃色の花びらが風に舞っている。豪勢な桜並木から飛んでくるようなものとは違い、一つ二つと溢れ落ちるような質素なものだ。
どこからか、小川のせせらぎが聞こえる。
風に髪を乱されながら、咲は辺りを見回した。
辺りは霧に霞んだようにぼんやりとしていて、まるで現実味がない。
(……ここはどこなのだろう…?)
恐る恐る足を一歩踏み出してみると、雲の上を歩いているかのようにふわふわと頼りなかった。
何の気は無しに桜の木を探した。が、見当たらない。
『……咲』
急にはっきりと自分の名を呼ばれた。飛び上がるほど驚いて、咲は振り返った。
「だ、誰……?」
『……、』
微かに笑う気配がした。しかし、姿はない。
まるで、風に乗って声が運ばれて来ているかのようだ。
声は囁くように、こう告げた。
『忘れてしまうことは悪いことじゃない。――でも、』
……
思い出さなきゃ。
向き合わなければ、ずっと"そのまま"なんだから。
「その、まま?」殆ど無意識に咲が反芻すると、声がふと微笑んだような気がした。
『恐れちゃ駄目だよ。――大丈夫。咲は一人じゃない』
ゆっくりと世界が暗転していく。花びらが舞い、渦を作る。
――きっと、大丈夫。前も、そう言ったろう? 声が響き、そして、風に溶けて消えた。
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咲が目を開けてすぐ、白い光に視界が焼かれる。あまりの眩しさに手で目をかばいながら、目を細めると、そこに綾都が立っていた。
「――やあ、よく眠れた?」
「……」
咲は床に手をつき、少し後ずさる。唇を結び、悲しげに眉をひそめた綾都は、ぐるりと中を見回した。
「――静香さんは?」
「……久信さんが、連れて行きました」
「、そう」と興味なさげに返事をすると、一歩、咲に近付いた。咲の顔がこわばる。
「今宵は満月。……そろそろ、教えてくれないかな?」鬼の居場所を、と囁くように聞く綾都の目が薄暗がりに妖しく光った。
――鼓動が大きく、一つ打つ。咲は手を固く握り、嫌々するように首を振った。
「……嫌で、す…」
「随分、強情なんだね」
綾都はため息をついた。その顔は驚くほど無表情で、まるで精巧な人形のようだ。一歩ずつ近づく度に、紅色の髪が優しく揺れる。
咲は震えながら、意を決して再び口を開いた。
「……一体…、何が目的なんですか?」
「目的?」
綾都は足を止め、目を細めた。聞き返す言葉にさえ、何の感情もこもってはいない。
この数時間で、感情をどこかに置き忘れてしまったかのようだ。
「人を殺したり、傷つけたり……、どうしてそこまであの刀が欲しいんですか?」
「……」
咲の脳裏には、傷付き、刀さえ振るえなくなった静香、辛い過去を背負う玄の姿、――そして、身を呈して自分を守ってくれた鈴鳴が浮かんだ。
――そうだ。あの刀のせいで、沢山の人達が傷付いた。
咲はじっと綾都を見つめた。
『……痛む…?』
『そんなに酷くなさそうだね。……良かった』
綾都は、他人の痛みが分からぬような、非情な人間ではない。むしろ、他人の痛みに敏感で、思いやることが出来る人間だ。……だから、他人を傷つけ、その命を奪う愚かさが分からない筈がないと咲は思う。
……
たとえ、彼が操り師で、――人殺しなのだとしても。
「……私には、貴方が悪い人には見えないんです」
「……」
綾都は怯んだように、身を少し引いた。
痛まないかと問いかけてきた悲しげに揺れる目も、時折見せる寂しそうな横顔も、咲には嘘、偽りだとは思えなかった。綾都の心に何があるのかはわからない。だが、狂気と名のつくものではないのは確かだ。
無表情だった綾都の目の奥が初めて揺れた。
「、僕、は……」
綾都が額に手を当て、一歩、また一歩と咲から離れていく。
「――、っと!」
明らかに動揺している綾都の背を驚いたように支えた影があるのに、初めて咲は気がついた。
「危ないな」
戸の影にいたらしい、その男は苦笑している。久信でも源能斎でも、ましてや姫乃でもない。
「……へえ、」緊迫した雰囲気に合わぬ、間伸びした声が響く。綾都の両肩を掴み支えながら、部屋を見渡す男の目とかち合った咲は、心臓の奥が冷えるのを感じた。体の震えが酷くなる。
――本能が告げている。
……
この男は危険だ、と。
「はじめまして、かな?」
綾都を壁に寄りかからせた後、無邪気な仕草で小首を傾げ、部屋に入ってきた。それだけで、部屋の空気が下がったように感じられる。
「……まあ、別にどっちだって構わないんだけど」フフフ、と男は愉しげに笑った。咲の目の前に屈み込むと、目線を合わせた。
「ね、鬼の使者さん」
「!」
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
細められる目と、弧を描く唇に目が釘付けになる。刀を目の前に突きつけられたかのような恐怖に、咲は動けなかった。
「全部、記憶無くしちゃったって本当なの?」
咲は目を見開いた。その反応に、満足げに口端を更に吊り上げる。
「……やっぱり、本当なんだ?」
囁くような男の呟きに、その場の空気が凍りついた。
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