――一体、何が起こったというのだろう。

恐ろしさで震える足を引きずるようにして、当てなくただ必死に歩みを進めていた咲は目の前で起こっていることが呑み込めずにいた。


(…………どうして……!)


――見慣れた半纏を羽織った背が、確かに見える。まさかと目を疑っても、幻は消えてはくれなかった。

咲は、声が出なかった。だって、こんなところにいるはずがないのだ。自分を庇い、素人目にも分かるほどの深手を負ったはずの鈴鳴が、ここにいるはずがない。なのに、そうであるはずなのに、少し離れた位置で、その鈴鳴によく似た影は自分に背を向けている。

――嬉しさか、混乱か、恐怖か。様々な感情が渦巻いて、咲は茫然とその場に立ち尽くした。


その時、その影が突然、膝を折り地面に膝をついた。背を丸め、いかにも苦しそうにもがいているように見える。

それを目にした咲は自分をその場に縫い止めていた恐ろしさをかなぐり捨てて、反射的に駆けだした。恐ろしさでひりついた喉から声がようやく飛び出す。


「――――鈴鳴さん!!」

鈴鳴らしき人影の他にもう一人いたことさえ目もくれず、地面に横たわり苦しんでいる影にすがった。


「しっかりしてください! 鈴鳴さん!」

その影はやはり、鈴鳴だった。額に脂汗を浮かべ、息遣いは酷く荒く苦しげで、唇には血を吐いたのか、唾液に混じった赤がこびりついている。咲が掴んだ手は何故か燃えるように熱かった。

混乱と衝動のままに、咲は傍らに立つ男に怒鳴る。


「どうして…、っ! 鈴鳴さんに何をしたんですか!」

「……儂は何もしとらん」

「、っ!」

鈴鳴はひくり、と喉を震わせ、呻いている。包帯のところどころが赤くなってしまっている。受けた傷口が開いてしまったのだろう。しかし、この発作のようなものはそれとは違う。それ以上に恐ろしいもののような気がして、咲は手の震えを押さえながら、必死に呼びかけた。


「鈴鳴さん!鈴鳴さん!す、」

「、ぁ……!」

辛うじて咲の存在を感じたのか、鈴鳴が何かをうわ言のように声を振り絞る。


「………、……は、…………な、れ…、ろ……!」

「す、」

「……ぁ…、はなれ…、っ! ぁ、……ああああああああああああああああああああああああっ」

鈴鳴は喉が避けるかと思うほどの叫び声を上げた。そして、目を一度大きく見開き、そのまま気を失ったかのようにゆっくりと目を閉じる。


「、す、ずなりさん?」

顔色が酷く悪い。唇もすっかり色を失って、こびりついた血だけが鮮やかに色をつけている。

咲は震える手で鈴鳴の頬に触れた。――まるで、死人のように冷たい。


「…、い、いやで、す……そん、な…、って……」

「…………鬼の使者よ」

そう呼びかけられて、咲の肩がぎくりと揺れた。傍らに立っている源能斎が咲を見下ろしていた。


「その若者から離れることじゃ」

「、っ! 嫌です!」

咲は守るように自分の背後に鈴鳴を庇った。それを源能斎は鼻で笑う。


「強情な娘じゃのう」

「、っや!」

源能斎が老体とは思えない力で、咲の腕を掴んだ。――が。




「…………こいつから、離れろ」

低い、唸るような声音。その者が放つ気配に咲の背筋は凍りついた。これまでに感じたことのない、畏怖の気配に反射的に咲は息を詰めた。その気配は、咲の背後で滑るように動き、そのまま強い力で咲を自分の方へと引き寄せる。

とん、と優しく、咲の頭が何かに触れた。頬に布が当たり、鉄のような臭いが鼻をかすめる。源能斎から引き離したであろう影を咄嗟に見上げて、咲は目を見開いた


「す、ずなり、…さん?」

「……」

自分を優しく見守っていたはずの目も、柔らかそうな猫の毛のような髪も、全てが赤へと染まっていた。――まるで、血を吸ったかのように。







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