綾都の手から刀が滑り落ちた。地に軽く弾んで、転がっていく。
血が絡んだ狼の喉がごくりと鳴った。――綾都の様子がおかしい。
「……あ、」
狼が掠れた声を喉から絞り出そうと口を開くのとほぼ同時に、綾都の右手に握られているものに気が付いた。
――背筋が凍る。
「、っ! 綾!」
「っあははははははははははは…!」
狼の叫びに答えるように、綾都は笑い出した。狂ったような、虚しい、大きな笑い声が木霊する。天を仰ぐように、顔を仰がせたまま、目だけを狼に向けた。
「――やあ、兄さん」
綾都の唇が動き、言葉を口にする。どこかよそよそしい、ぎこちなさを感じる口調に狼の目が泳いだ。
「お前…、い、」
「どうしたっていうの? 兄さん。……、なーんてね」
にたりと綾都の口端が吊り上った。右手にしっかりと握られた、かの妖刀の切っ先が震える。綾都の右腕が不自然にカタカタと痙攣していた。
……何か、見えない力に逆らいでもしているように。
奇妙に震える自分の右手を見やり、綾都は白々しい偽りの笑顔を引っ込めた。そして、低く、感情の籠っていない声が綾都の唇からこぼれ落ちた。
「――ねえ、"あんた"」
「!」
綾都の口調ががらりと変わった。剣呑に細められた目から放たれる視線。それは、迷いも何もない、純粋な殺気そのものだ。
「――俺に、あんたの血を、肉を、くれ…!」
乾いた、囁くような声と共に、綾都が地を蹴り跳躍した。勢いをそのままに刀を狼へと振り下ろす。狼は地面に落ちた刀を拾い上げようと、飛び込むように倒れ込んだ。そして、何とか一撃を避けて刀を掴むと、身体を捻り、地面に仰向けに寝転んだ状態で綾都の凶刃を迎え撃つ。
狼の上に覆いかぶさるようにして、刀を交わらせた綾都は下にさらに体重をかけた。耳障りな甲高い声が狼を嘲笑う。
「あれ? どうして、生きようとしてるの? かわいそうな僕のために、死んで償うんでしょ? ねえ、ねえっ!」
「っ、…ぁ……!」
綾都がギリギリと刀を押すほどに、狼の腕や肩から地面に鮮血が滴り落ちた。綾都に傷つけられた狼の肩の傷が特に深く、そこから大量に出血しているらしいのだ。
ぱたり、ぱたりと狼の傷口から血が落ちる度に、綾都の目が狂気的に輝いた。
「は、あははははは…! 血だ…血が出てるよ、兄さん…!」
「あ、綾…」
狼が映り込んだ見開かれた目には先程までの狼狽や一種の迷いはすっかり消え失せ、殺意と狂気が入り混じり濁っている。
(――まさか…、妖刀の…)
――何かが、綾都の中にいる。そう、狼が察した瞬間に、綾都が顔を上げ、にたりと不気味な笑みを作った。
「……お客さんだ」
綾都の呟いたのとほぼ同時に、何かが綾都のすぐ傍の地面に突き刺さった。綾都がゆっくりと刺さったその何かに視線を向ける。
――鋭く磨き上げられた、クナイだ。
「――飛び道具なんて、僕向きじゃないと思ったけど、」
からかうような、軽い口調が辺りに響き渡った。ばきりと割れた地面を踏み、その人物は目を細める。
「案外、筋がいいのかもしれないね」
――そう思わない? 狼。
朱の半纏から覗く胸に巻かれたさらしはすっかり赤黒く染まり、満身創痍の火焔隊総隊長、人呼んで、片腕の玄の字、その人であった。
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