「――そこ、退きなよ」

目を剣呑に細め、玄は懐から綾都に向かって、勢いよく何かを放った。一直線上に鋭く飛ぶ矢のように見えたものは、どうやらクナイのようだ。

綾都はそれを笑みを浮かべ、狼の上から素早く退く。


「うふふ…、強引だなあ。もしも当たったりしたら、どうするの?」

「煩いよ、お前」

玄は不機嫌そうに睨めつけ、咳き込みながらも何とか起き上ろうともがいている狼を見やった。腕に力が入らないのか、地面に突っ伏している。

いつもの通りの皮肉めいた笑みを浮かべ、玄は見下ろした。


「随分いい恰好じゃないか、狼」

「……、……は…、っ…! 人のこと言えた口か…! き、桔梗は…?」

「ああ」

玄は肩に刀を乗せ、天を仰いだ。暁の社に向かっている最中に見た、空を走る、どこまでも赤い、あの禍々しいまでの稲妻を思い出していた。


久信達を追って、玄と桔梗が暁の社の大鳥居の下を駆け抜けた時、何かが起きたのだ。四肢を締め付けられるような息苦しさの後、ふと気が付くと、玄は一人だった。競うようにして自分の斜め前を走っていたはずの桔梗の姿はどこにもなかったのだ。

玄は肩をすくめた。


「外がちょっと妙なことになっててね、桔梗とははぐれたんだ。まあ、この社のどこかにはいるんじゃないの? ――さて、と」

――今は、そんなことに構っている暇はない。玄は綾都と対峙しつつ、庇うように狼の前に進み出た。

狼は驚いたように目を見開く。


「玄…、何のつも、」

「――見たところ、僕より重傷のようだし、これは貸しだよ」

綾都の身を包んでいる禍々しい狂気に、玄は腰の物を迷いなく抜き放った。今ここで、討ち果たさなければならないと本能が告げている。陽炎が立ち昇っているような、身がすくむほどの殺気に、綾都の心が完全にあの刀にのまれてしまったのだと悟った。


(……狼には悪いけど、血肉を欲して狂うなんて、まるでバケモノじゃないか)


――さあ、どうしてくれようか。熱を帯び、脈打つ度に疼く傷を無視しながら、玄は薄く笑った。















「……どうやら、はぐれてしまったみたいですね」

注意深く辺りを見回し、桔梗は一人ごちついた。一緒に暁の社へと足を踏み入れたはずの玄の姿はない。あの奇妙な感覚からいって、結界とやらを上手く抜けてきたらしいが、どうやら別々の場所に飛ばされてしまったようだ。

しかし、玄と合流している暇はない。桔梗は乱れた息を整え、目の前に建つ大きな屋根を見上げた。黒塗りの瓦が桔梗を見下ろしている。


「……それにしても、」

やけに立派な屋敷だった。庭には松が植えられており、下は砂利。桔梗の傍らには、小さな池もある。確か、暁の社にこのような建物はなかったはずだ。

いや、綾都は幻術使いだ。これは綾都の作り出した幻なのかもしれない。


「――あれ、」

「!」

桔梗は肩を跳ねさせ、声のした方に向けてクナイを構えた。仄かに光沢を放つ廊下に人影があった。


「もう着いたの。早いね」

「御託はいい。あんた、操り師か?」

桔梗が唸るようにそう尋ねると、影はおかしそうにクスクス笑った。不気味な影はちょうど物影に入っており、辛うじて見えるのは片方の白い腕だけだ。


「随分、陳腐な台詞だね。希代の女形がそんな台詞吐いてもいいのかな?」

「! なぜ…、」

「――そんなことよりさ、」

茶化すような、面白がっている口調で、影は囁くように続けた。その瞬間を見計らったように、何か硬い物を叩くような激しい音が辺りに響いてきた。何の音かと、桔梗が影に注意を向けながらも耳をそばたてると、目の端に松に隠れるように建っている、小さなお堂のような建物を見つけた。

影は笑みを含んだ言葉で囁く。


「――そう、あそこに君の大事なものがある」

「何を、」

「行ってみればわかる。――この世で、君が一番失いたくないもの。そして、」


――君の、唯一の"弱点"。


その言葉に、ぞくり、と背筋が凍った。注意がそれて、お堂のようなその建物に目が釘付けになる。まさか、とは思う。恐ろしい、とさえ、思う。


鳴り止まない、激しく何かを叩く、――この音。

戸を開けてくれと懇願する音ではあるまいか。


「し…、静香!」

踵を返す足がもつれる。最早、不気味な影の主など桔梗の目には映ってはいなかった。砂利を蹴り、半ば転ぶようにして桔梗はお堂を目指した。

あの音が近づく。太い木の板によってなされた施錠を突破せんと戸が悲鳴を上げている。桔梗は木の板に飛びつくようにして掴むと、引き抜いて、地面に乱暴に放った。そして、戸をわき目もふらずに勢いよく開ける。


「し…ずっ、」

暗い、暗い闇。その中から、自分の胸の辺りに勢いよくぶつかってきた人影。


――汗の匂いに混じる、懐かしい彼女の匂い。


「――静香!」

「……き、きょ…う…?」

手を振り上げた状態で、静香は目を見開いた。目に入った、赤く腫れた手が痛々しい。


「ど、…うして、こ…、こ、」

桔梗の姿に混乱しながら、ふ、と静香の全身の力が抜けた。桔梗は静香の体を正面から支え、受け止める。意識せずに触れた、奇妙にだらりと下がった腕に、愕然とした。


「、っ! 嘘でしょう…!」

肩が完全に脱臼してしまっており、さらに二の腕から前腕にかけて、酷く腫れている。そこかしこに走る、血が滲んだ傷に桔梗は血の気が引いた。しばらくは動けないほどの、尋常でない痛みであったはずだ。


「……なんで…、」

桔梗は衝動的に静香の体を抱きしめた。手当てが先だと分かってはいても、そうせずにはいられなかった。


「ど、うして…、無茶をするんだ…! …ん、で……、あんたは…、――っ! 俺が守るって、言った…、彼女をもう傷つかせやしないって…、誓ったじゃないか…!!」

掻き抱くその桔梗の腕に、静香の髪が触れる。――彼女はちゃんとここにいる。そう分かっているはずなのに、離せば消えてしまいそうで怖かった。


「……、ん…」

「……」

「き、きょう…?」

静香は目を覚ました。桔梗の姿が幻ではなかったと安心すると同時に、桔梗の肩の傷が自分に触れてしまっていることに気が付いた。桔梗の腕から逃れようと身をよじるが、力が上手く入らない。


「きっ、桔梗! やだ、傷が、」

「……いや、だ」

「え?」

「…………い、やだ」


――嫌だ。


桔梗はそう繰り返すと、静香を抱きしめる腕にさらに力を込めた。桔梗の体が小さく震えている。

静香ははっと息を呑むと、悲鳴をあげる腕に鞭打って、桔梗の背に腕を回した。


「……もう、大丈夫だから。心配かけてごめんね。助けに来てくれて、ありがとう」

「もう、どこにも行くな…。頼むから…、行かないでくれ…」

「――分かってる。どこにも行かない」

静香は小さくそう返すと、少し桔梗の胸に頬を寄せた。






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