……忘れたくなんてないのに、君の影が思いの外遠くて切なくなる。
それでも、古い記憶の中で僕は君の影を探す。
――若菜……。
たとえ、往く年過ぎ去ろうと、己が狂気に染まろうと、君は僕の中で永遠だ。
たとえ、忘れてしまっても、僕達はずっと一緒だから――
………………………………
廃れた神社の渡り廊下にしては床がさほど痛んでおらず、月光を反射した板が仄かな光沢を放っている。
不思議と埃の被っていない床を踏みしめ、久信と静香は歩いていた。
優しく、風が頬を撫でていく。
「どこに連れて行こうって言うの?」
「……」
久信は足を止め、無造作に一室の戸を開けた。
大して広くない一室の真ん中辺りに、ぽつんと徳利がひとつ、盆に乗っていた。傍らに小さな赤い杯が寄り添うようにして、置いてある。
「――…酌をしろ」
久信は部屋に足を踏み入れ、そのまま当たり前のように座り込み、杯を静香に差し出した。
「……はあ?」
静香は呆気にとられ、久信の手を見つめた。……予想だにしない展開に、頭がついていかない。
「――いいから、酌だ」面倒そうに、杯をぐい、と静香に突きつける。
「……まさか、徳利も持てないなんて馬鹿いうつもりか?」
「ち、違うわよ! ただ……」
静香は眉間に皺を寄せ、ため息をついた後、やればいいんでしょ!とばかりに乱暴に徳利を手にとり、中身を勢いよく杯に注いだ。
激しく波打ち、溢れそうになる杯に大して慌てた素振りも見せず、悠々と口をつけながら、久信は呆れたように息をついた。
「色気のクソもない…」――これなら、一人で飲んだ方がマシだな。杯を一気にあおり、空にすると薄く笑った。
さっさと次を注げとばかりに杯を差し出す久信を一瞥し、静香は口を開いた。
「……なんで…、私がもう刀を使えないって知ってるの?」
久信によって負った傷は医者の予想を遥かに超えて酷く、無理に刀を振るえば体に耐えきれないほどの大きな負担がかかる。
……この事実は、静香本人と診察した医者、桔梗しか知らないことなのだ。
――そんなことか、とばかりに久信は鼻で笑った。
「見るヤツが見れば分かることだ。……それに、」杯を盆に戻し、左肩辺りを掴んでみせた。
「俺が負わせた傷だけじゃない。もうとっくに、お前の身体は限界を迎えてた」
「!」
「まさかとは思うが、――お前、拷問でも受けたことがあるのか?」
久信の問いに、静香が顔色を変えた。静香の反応を楽しんでいるかのように、久信は満足気に笑った。
「――図星か」
「……っ…!」
「ただの育ちのいいお嬢さんってわけじゃなさそうだしな、あんたは」
久信は顎に手をやり、肘をつきながら、目を細めた。それは、薄暗い闇で静かに瞬く。
「影のある目。……だが、歪んではいない。俺逹と違って、あんたは愚かで人間らしい…」
誰に言うでもなく放たれた言葉と共に、突然、がらりと久信のまとう空気が一変した。
薄い唇が弧を描き、吊り上がる。
「――だからこそ…、壊したくなるんだろうな」
独り言のように小さく呟かれたそれは、明らかな殺気を含んでいる。久信の細められた目が一瞬、金色に輝いた。
危険を感じた静香が久信から距離をとろうと動く前に、久信の手が両肩を掴んで力任せに床に押し倒した。
「、っ…!」
勢いよく頭や背中を強く打ち、ひゅっと息がつまる。視界が激しく揺れ、めまいがした。
「……人間てのは脆いもんだ」低く笑いながら、久信は静香の顔を見下ろした。
「――お前らは簡単に死ぬことが出来る。死のうと思えば、死ねる。……それを"幸せだ"と考えたこともないんだろうな」
「、っ……」久信が手をついている肩がぎしり、と軋んで悲鳴を上げた。静香の胸をじわじわと恐怖が満たしていく。
――声が出ない。
「……、」
暫くそうしていたが、やがて久信は肩から手を退けて、静香の顔の横に手をついた。頬に唇が触れそうな程に顔を近づけると小さく囁く。
「……あんたのその顔、なかなか笑える」
「、なっ!」
からかうようにそういうと、ゆっくりと静香の上から下りた。そして、何事もなかったかのように、床に転がる徳利に僅かに残った酒を杯に注いで、飲み出した。
久信は未だ唖然としつつもなんとか起き上がった静香にからかうような意地の悪い笑みを浮かべた。
「……なんだ、期待してたのか?」
「あ、あんた……」何なの?と言いかけ、静香は口を閉じた。乱れた前を正して、久信の顔を見つめた。
……
聞いたとしても、絶対に答えないだろうという予感がした。
「――なんだ?」
「……なんでもない…」
久信から目をそらし、静香は首を振った。
『簡単に死ねることが、幸せだなんて思いもしない』
……これは、どういう意味なのだろうか。
……
この男は、一体、何を考えている?
静香は辺りを照らす月に視線を移しながら、一人鬱鬱と思考に耽っていた。
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