雅景には、たった今、自分の目の前で起こったことが信じられなかった。
――一瞬の煌めきと鋭利な斬撃。
薄暗い蔵の中で、ぐらりと一つの影が力を失い、崩れた。うめくでもなく、叫び声を上げるわけでもなく、ただ静かに地面に落ちたように見えた。
……
まるで、操る者を失った人形のように、――くたり、と。
雅景は、ほとんど無意識に、その場に立ち尽くしているもう一つの影を脇に押しやり、倒れた影にひざまずく。
頭はまだ何が起こったのか、はっきりとは理解出来ていない。
それでも、カタカタと小刻みに震える手で、倒れた体に触れた。ぬるり、と手の平が血に濡れる。
触れてもぴくりとも動かないそれは、全く息をしていなかった。
……地面に伏せるようにして、父、重成は絶命していた。
かっと見開かれた目は血走り、虚空を見つめ、薄い唇の端から一筋の血を滴らせている。
手は未だ、刀の柄をしっかりと掴み、離していない。
「……」
雨の落ちる音と、荒い息遣いのみが蔵の中を反響していく。
雅景は、重成の手から刀を引き矧がすと、それを床に捨て振り返った。
そこには、血に濡れた刀をそのままに呆然と立ち尽くす綾之助がいた。
額に浮かぶ汗がこめかみを伝い、震える唇が言葉をなんとか紡ぎ出そうとする。
「……に…、」
沈黙したまま雅景が綾之助に歩み寄ろうとした、
――ちょうどその時だった。
「――雅景様!」鋭い声が響き、力強く雅景の体が後ろに引かれた。
よろめいた雅景の体は、勢い良く調度品の中に埋もれた。
「……っ…!」
「――よかった。ご無事でしたか…」
咳き込む雅景の顔を覗き込んできた人物を目を見開いて凝視する。
「……卍?」
そう、雅景が呼びかけるとその人物は深く頷いた。
屋敷で別れた綾之助の世話係の姿がそこにはあった。先程の脅えたような様子は消えており、普段から刀を持たぬ彼の手には薙刀が握られている。
「……雅景様。ここは私に任せてお逃げ下さい」
雅景の手を掴んで立たせると、隙なく薙刀を構えて卍は言った。……切っ先を綾之助へと向けて。
「ま…、卍! 何を…、」卍の手を振り払い、前に出ようとした雅景を薙刀の柄で制した。
「――この"化物"の相手は、私が致します」
卍は綾之助から一度も目をそらさず、対峙している。
綾之助の目が見開かれ、卍を見つめる。ぱたり、と一つ、雫が落ちた。
「……ま…、…じ……さん?」
「……っ…! ――私の名を呼ぶな! 穢らわしい!」卍が殆ど叫ぶように、怒鳴った。その勢いに圧され、一歩後ろに下がった綾之助に向けられた切っ先が揺れる。
卍が低く、綾之助に問い掛けた。
「……刺客に襲われた時、何故、抵抗したんですか?」
ひくり、と綾之助の喉が動いた。雅景がはっとして、卍の袖を掴んだ。
――綾之助が斬った、刺客と思われる二人の人間。
「……まさか…、お前が?」
「――ええ」
卍はあっさりと肯定し、ちらりと己が差し向けた刺客達へと冷たい眼差しを向けた。
「……まあ…、見事に仕損じてくれましたが」
「――…ど、」
どうして、と綾之助はかすれた声で卍に尋ねた。
綾之助にとって、兄や母以外の味方は、卍だけだった。卍だけは、――父や他の奴らと違うと思っていた。
……なのに、
「……何故、生きようとするんですか?」
――貴方のような、"忌み子"は死んだ方が不知火の為だというのに。
淡々と吐かれた、残酷な言葉は、深く胸をえぐる。
卍は重成を見下ろし、溜め息をついた。
「……全く…、私の父があれほどご忠告申し上げたというのに、重成様も都様も性懲りもなく神口(かみくち)のご意向に逆らった。当然の酬いです」
――神口。
不知火に古くから遣えてきた、呪術師のことだ。
歌うように、卍は言った。自分の言葉に酔ってでもいるかのように見える。
「――神口は言いました。血の髪を持つ忌み子を生かせば、必ずや障りが生まれると」
「! ふざけるな…!」雅景はまだ続けようとする卍を遮り、睨みつけた。
「そんなことで…、命を奪うのか…!? 髪の色がなんだっていうんだ…!」
そんな理不尽な理由で、殺されていいわけがない。
綾之助には生きる権利がある。……死んだ方がいい、と言われる命など、この世にはない。
「――卍! お前は…、お前らは…間違ってる!」
「……雅景様」
胸ぐらを掴む雅景の手をやんわりと掴み、卍は微笑んだ。その笑顔に背筋にぞわりと悪寒が走る。
「――それが、この不知火という家なのです。貴方が今まで家と呼び、悠々と暮らしていた世界は私のような者達によって守られてきた。……わかりますか? 貴方が嫌う、人々によって守られてきたんです。そして、私は、この忌み子によって、壊されようとしている、貴方の居場所を守ろうとしているだけなのですよ」
――自分の居場所。
不知火という、家……
雅景の、心の臓の奥が冷えていく。混乱し、吐き気がした。
「! そんな居場所なら、俺はいらない…!欲しくない…!」
「貴方は我が儘ですよ、雅景様」
嘲笑うように卍は続けた。
「貴方は、本当の孤独を知らない。それ故に、簡単にそのような強がりを言う…」
……
貴方は甘い。
考えも、決意も、全て。
生まれた時から、恵まれていた貴方は独りでは生きられない。
……甘いんですよ、貴方は!
喉の奥で笑うと、卍は薙刀を構え直した。
「……ああ、そうだ。貴方が弟とおっしゃる化物に尋ねてみてはいかがですか? 彼ならよく知っていると思いますよ」
……
本物の孤独が何たるかを。
「……卍さん」
不意に、静かな声が響いた。小さなそれは、雨音に紛れることなく、卍の耳に届く。
「? ……何を、」卍が怪訝そうな目で、その穏やかな顔を凝視する。
すると、音もなく、姿が消えた。
「! 一体、」
――気配すら、しない。
流石に焦る卍の耳元で声がした。
「――今まで、」
……
ありがとう。
それは、柔らかく、あまりにも穏やかで。
風が斬られる音すら、現実味が全くないまま、容赦のない斬撃が放たれた。
肉の斬り、骨を断つ音が響く。そして、何かが赤い液体と共に転がった。
……何が起こったかすら、分からなかったであろう、卍の首と体が無惨に地面に伏している。
綾之助はくるり、と振り返った。全身に血を浴び、真っ赤に染まっていた。
……
それは、まるで鬼のようで。
「……兄さんも…、僕をそんな目で見るんだ……?」
「……っ違、」
「……兄さんに…、教えてあげるよ」
頬についた血を拭いもせず、綾之助は笑った。穏やかな、けれど、どこか悲しそうな顔で。
「……本当の孤独を」
……
居場所が要らないのなら、奪ってあげる。
壊してあげる。
……兄さんも、僕と同じように、苦しめばいい。
苦しめば、いいんだ。
綾之助はおもむろに片手を上げ、雅景の額に人差し指と中指を当てた。
そして、口の中で小さく何かを唱える。
「………ぁ、や…」袖を捕えようとする手が上手く動かない。頭に霞がかかっていく。
綾之助の声が遠い。
「……僕はもう、不知火蔵之丞綾之助なんかじゃない」
……
綾"都"だよ。
雅景の意識が途絶えたその時、火のはぜる音を聞いたような気がした。
………………………………
「……俺は結局…、何も出来なかった」
……
生まれた時から居場所のあった俺が、恵まれていた俺が…、
綾都の全てを、理解してやれる、と、
――俺は、自分の力を驕って(おごって)いた。
……
そんな力…、俺にはなかった。
狼は悲しげにうなだれた。紅紐で高く結われた髪がふわり、と揺れる。
「――俺が目を覚ました時、綾都はすでに姿を消していた。……忌まわしい不知火の屋敷に火を放って」
『全て、なくなってしまえばいい…!』
綾都の悲鳴が聞こえてくるようだった。
桔梗はおずおずと遠慮がちに尋ねた。
「……狼は、その…、どうやって助かったんですか?」
「通りかかった佐々木様に助けられたんだ」
仕事帰りに屋敷の向かいの通りをぶらついていた、重成の同僚である佐々木が火の手に気付き、不知火の屋敷に踏み込んだ。その時、すでに屋敷は火の海で、かろうじて残った屋敷の門の前に何故か、雅景が倒れていたらしい。
駆け付けた火消しに知り合いであることを告げ、雅景を連れ帰り、佐々木の細君と共に看病してくれた。
――数日経ち、ようやく意識の戻った雅景に佐々木は、生き残ったのが雅景一人きりであることを告げた。
『……雨が降っていたにも関わらず、火の勢いが凄くて…どうやら、皆、逃げ切れなかったようだよ』
疑うような、不思議な物でも見るような目で佐々木は雅景を見つめた。
……それはそうだろう。
右頬に深い切傷があるものの、雅景は一切火傷を負うことなく、あの火の海から逃れたのだから。
佐々木は常に眼鏡を傾かせた、冴えない風体をしている。――が、しかし、実はかなり悟い。
具合は大丈夫かと話を巧みにそらしながら、雅景を抜け目なく観察している。何かあったのか、と正面きっては尋ねないが、どことなく、何かを察しているようだった。
『……暫く、私の家にいて療養しているといい。恐らく、その間に、お上から君に話があるだろうから』
……たった"独りきり"となってしまった旧家、不知火。
その嫡男である不知火藤右衛門雅景をどうするか。
……
はたまた、
姿を消した、不知火蔵之丞綾之助をどうするか…。
政府は重成から綾之助のことを聞いて、知っているはずだ。恐らく、それは間違いないだろう。
……
つまり、政府はこの件の諸々の事情も検討がついている。
『……私は、君が嫌いじゃないよ』
唐突に、佐々木は言った。怪訝そうにうつ向きがちだった顔を上げると、やけに真剣な目が雅景を射抜く。
そして、淡々と続けた。
『……勿論、重成殿のことも。横暴で、時に、残酷な男ではあったが、話の分からないやつではなかったから』
ぽん、と膝を叩き、佐々木は腰を上げた。
『私は、雅景君をここに置いてもいいと思っている』
『何かあれば、遠慮せず頼ってほしい』
佐々木はそう申し出た。労る(いたわる)ような、そんな穏やかな口調で。
「……俺は、佐々木様の申し出を断った」
自分がそれ相応の処分を受けるにしろ、受けないにしろ、政府から睨まれようとしている今、佐々木やその家族を厄介事に巻き込みたくはなかった。
右頬の傷が完全に癒え切る前に、雅景は佐々木の屋敷を後にした。
決まっていた翌日の政府との謁見も放り出して。
――そして、名を捨てた。
不知火藤右衛門雅景という名前を捨て、狼と名乗った。
「……不思議なもんでな、」と狼は微笑んで、続けた。
「名前を捨てた時、急に独りなんだと思った。全て無くなったんだ、なんて…」
おぼろげだった事実が急に形をなして、胸に重くのしかかる。
これが、孤独。
狼は静かに頭を振り、何かを振り払うと、手で軽く膝を打った。
「……これで、一応、全て話すことは話したはずだ。俺と綾都は、いつか決着をつけなきゃならない」
「ろ、狼…、」神城が何かを言いかけ、口をつぐんだ。狼は首を横に静かに振った。
「――頼む。綾都のことは、俺に任せてくれ」
「……綾都に会ったら、どうするつもりなの?」
冷静な玄の声が響いた。切長の目が、狼の顔を見据える。
「……」
「僕が言えた義理じゃないことはわかってるよ」襟足をかいて、玄はそれでも問い掛けた。
「狼が何をしようとしてるのか、長い付き合いだし、何となく察してる。……覚悟はあるの?」
「――どちらかを選ぶしかない」狼は玄の目を見返した。悲しい決意の秘めた目で。
「……だとしたら、俺は守る方を選ぶ」
「……狼」
「――もう、何も言うな」
狼は目をそらした。玄は口をつぐんで、それ以上問い詰めるのを止めた。
鈴鳴、桔梗、神城、栄吉、杢太郎も、沈黙し、誰も何も口にしようとはしない。
――彼等には分かった。
どんなに悲しく残酷な道なのだとしても、狼の決意はゆらぐことはないのだと。
たとえ、その背に消えぬ罪を背負おうとも――
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