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静寂は突然、破られた。
横になり、うつらうつらとしていた雅景は許しもなく無遠慮に開けられた戸の音に、はっと目を覚ました。体を起こし、枕元の刀を反射的に手に取る。
薄暗い闇に目を凝らし、刀の柄に手を添えた。
頬が夜気に当てられ、ひやりと冷える。
「ま、雅景様! 私でございます!」切羽の詰った声に聞き覚えがあった。刀から手を離し、その人影に歩み寄る。
「――卍?」綾都の世話役をしている卍であった。吹き消された灯りを手にガタガタと震えており、その上、額に脂汗を浮かべている。
尋常ではない卍の様子に雅景の胸の奥がざわついた。
「こんな夜更けに、一体、何事だ?」
「――そ、それが…、」息を乱し、卍が何か話し出そうと何とかわななく唇を動かそうとしたその時、闇を悲鳴が切り裂いた。
それは、大の男二人を、その場に凍りつかせるのには十分な効力を持っていた。
二度三度繰り返された、断末魔めいた叫び声は長く尾を引きながら、闇に消えていく。
ようやく、金縛りから解放された雅景は刀を抜き放ち、駆け出した。
背後で卍の制止の声がしたが、雅景の足は止まらない。
部屋の灯りが次々灯り(ともり)、何やら急を要する事態が起きたようだと悟った者達の足音が騒がしい。
雅景は、迷うことなく庭先へと飛び下りた。
嫌な予感が胸を満たして、焦りばかりが募っていく。
柔らかな霧雨が裾の乱れた着流しと髪を濡らすのも構わず、雅景は蔵に向かった。……何故、そこに向かおうと思ったのかは分からない。
閉められ施錠されたはずの蔵の扉が開いていた。外れた南京錠が風に吹かれ、音をたてる。
――絶えないはずの、蔵の中に灯りはない。
扉の隙間からすすり泣くような声と、かすれたうめき声が聞こえた。
はやる気持ちを抑え、雅景は扉の隙間へと身を滑り込ませた。
胸を打つ鼓動ばかりが煩い。
足元に崩れた調度品を避けながら、慎重に進んだ。
蔵の奥に見慣れた影がひっそりと佇んでいた。いくばくかほっとして、雅景は口を開きかけ、言葉を失った。
――檻の頑丈な扉の前に蹲るようにして、倒れている二つの人影。その下に広がっているのは、……血溜りだ。
一人は既に息絶えており、もう一人は背中の深い傷にうめきながら、すすり泣いている。
立ちすくむ雅景の気配に気付いたのか、見慣れた人影はくるり、と振り返った。
「――…兄さん」
どうしたの?と檻の扉を押し、牢の外に出ながら何事もなかったように問う、綾之助の表情は全ての感情を削ぎ落としたように、無表情で正気がない。
乱れた赤い髪の隙間からかろうじて見える目が、異様に闇に瞬き、輝いていた。
「……そ、の手…、」綾之助の足元に転がる亡骸から目を離し、喉からようやく絞り出した雅景の言葉に、微かに綾之助は眉を上げた。
そして、両腕を胸の高さまで持ち上げる。
「……ああ、これ?」
……
綾之助の皮膚に残る赤い物はぬらぬら、と不気味に光り、色鮮やかに赤く染まっていた。
綾之助は腕をだらり、と体の脇に垂らすと、雅景から顔を背けた。
「……どうでもいいよ、そんなこと」
「……。――こいつらに襲われたのか?」
「……」
びくり、と肩が揺れる。一瞬、顔に脅えたような表情がかすめた。
しかし、今、その顔はどこまでも無表情で頑に戻っていた。
「……襲われたのか?」
「……っ…、そうだよ…? だから…、だから、何?」もう一度、問いかける雅景に、応える綾之助の声は微かに震えをおびていた。
……
近づくことさえ、躊躇われる程の激情が肌を刺す。
相反した明るい声が雅景の胸を深くえぐった。
「――あれ? 忘れちゃったの? 駄目だなあ、兄さん」
「っ…!」
……不知火の次期当主になるくせに、綾之助は淡々と無邪気に声を上げて笑う。
雅景が次期当主になることは、母が死んですぐ、父親である重成からそれぞれ告げられていた。
「…………お、れは…」声がかすれる。
『――不知火の次期当主は不知火藤右衛門雅景とする』
その宣言がどれほど綾之助を傷つけたか、雅景は知っていた。
――不知火家は能力に応じて、次期当主を決める。
どんなに可能性は薄くても、その小さな希望に少なからず、望みを託していた綾之助にとって、これほどの仕打ちはなかった。
綾之助は吐き捨てるように続けた。
「……僕、忌み子なんだよ、兄さん。生まれちゃいけなかった子ども、誰からも必要とされない子ども。……兄さんはいいよね…?」
……
求めなくても、自分の居場所があるんだから。
「――兄さんに、僕の気持ちが分かるわけないよ」
「……」
どんなに分かりたいと思っても、本当の意味で理解し、本当の痛みを分かち合うことは出来ない。雅景は雅景であって、綾之助ではないのだから。
……
だが、それでも――
「……綾…、俺はお前を助けたいと思ってる」――助けたい。この運命から救いたい。それが、雅景の本音だった。――が、
「……助けたい? ははっ、」歪んだ笑みが口の端に浮かんだ。綾之助は血まみれの腕を抱え、笑い出した。
そして、ふ、と急に無表情になる。
「笑わせないでよ」
「綾…、俺は……」
「兄さんが僕の兄である以上、無理だ」
……
僕の居場所を奪ったんだから。
「……兄さんなんて…、」静かにつむがれた言葉。悲しみと憤りに歪んだ目。
刀が音もなく、引き抜かれた。薄暗い闇におぼろげに白く光る。
「っ、……いなければ良かったのに…!」
綾之助の目から溢れ、頬に落ちた、涙。
……
兄さんさえいなければ、僕は。きっと、僕は。
苦痛に満ちた声と共に、何かを振りきるように刀が一閃された。
ただ呆然とその場に立ちすくんでいた雅景は、とっさに阻むことも出来ずにそれを見ていた。
右耳近くで刀が唸り、頬が深く切れた。つ、と、血が涙のように滴る。
雅景は糸の切れた人形のように、後ろへよろめき、尻餅をついた。
静かに、頬の傷から溢れた血は首筋を伝い、濡らしていく。……まるで、涙のように。
「、…ぁ……」いつものように、――綾、と呼びたいのに、声が出ない。まるで、声をなくしたかのようだ。……こんなに近くにいるのに、何故遠いのだろう。
泣いている。
うちひしがれている。
大丈夫。この程度の痛みなど、お前の痛みに比べれば大したことはない。
……
だから、お前が、そんな顔をしなくたっていいんだ。
刀が再び、振り上げられる。それに、無意識に雅景は手を伸ばした。
――微かに動揺し、揺れる切っ先。
「……っ…、そんな目で僕を見るな…!」と叫ぶ綾之助の背後に、殺気が降り立った。
……
それは、あまりにも突然で。
「な、」
「――この、愚か者め」
振り返る綾之助の耳に冷たい声が響き、風を斬る音が響き渡った。
殆ど反射的にふるった綾之助の刀が、相手の刀を弾き返す。綾之助は、刀を引き、後ろへ跳んだ。
隅に雑多に並べてある調度品がガラガラと崩れる。
ちょうど綾之助と雅景の間合いに入った人影は、刀を下に下げ、冷ややかに言った。
「……やはり、つまらぬ情などかけるべきではなかったか」
「――と、」
……父さん…、
ぐらり、と綾之助の目が揺れた。
微かに光る稲妻に、苛烈さを秘めた目が瞬いた。重成は油断なく刀を構えながら、ちらりと雅景を見やった。
「……同情をし、愛という幻想を与えてやった結果がこれだ」
「!」
「ふっ、笑えるな…」言い返そうとする雅景を遮り、重成は喉の奥で笑い声を上げ、冷笑を浮かべた。
「お前も、都も間違っていた。……そして、俺もまた」
選ぶべき道を誤ったということだ。
霧雨が屋根を打つ音が優しく、蔵の中を木霊した。
淡々と感情の全く籠っていない声が響く。
「……お前はあの時、この手で殺しておくべきだった。俺としたことが、あのような甘言に呑まれるとはな…」自嘲するように笑い、続けた。
「お前は元々、愚かで、お優しい母親の命請いがなければ、この世に存在しない命。――現、不知火当主、そして、"表向きは"お前の父親となっている俺がここでかたをつけてやろう」――有り難く思え、と、最後に嘲るように付け足した。
雅景の中で、ある一言が頭の中で反芻された。
――"表向きは"。
これは、どういう意味なのだ。一体、どういうことなのだ。
雅景の胸がざわめき、鼓動が早くなる。
重成は目に見えて、うろたえて視線をさ迷わせている綾之助に問いかけた。
「……たとえ忌み子とはいえ、何故、仮にも自分の子にここまで冷淡なのかと疑問には思わなかったのか?」
重成の問いかけに、綾之助は息を呑んだ。
物心ついた頃からすでに、重成は、綾之助を見ようとも会おうともしなかった。同じ敷地にいながら、綾之助が普段、閉じ込められている蔵に一度たりとも訪れたことはない。
次期当主を兄である雅景にすることを告げに訪れた時が、綾之助の記憶している限り、初めての訪問であった。
……
何故、父は自分を愛してくれないのか。
忌み子だから、忌むべき存在だから、
――だと思っていた。
やはりな、と嗤う重成の口調に、嘲りの色が濃くなった。顔が醜く歪む。
「――お前は俺の子ではない」
……
お前の母が、ほかの男と密かに通じて産まれた、不義の子だ。
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