重い扉が開く音で、綾之助は我に返った。兄からの差し入れである書物を閉じ、その先へと目を凝らした。


「……誰?」囁くように、だんだん細くなる外の光に呼びかけた。返事はない。


「、兄さん?」まさかとは思いつつも、薄暗さに徐々に慣れてきた視界に入った人物が兄だったような気がして、綾之助は目を細める。


その人物が近づくにつれて、綾之助はほっと息をついた。


――やはり、思った通り、兄の雅景だった。



「どうし、……!」ぎょっとして思わず、綾之助は鉄格子があるのも忘れて、近付いた。


慌てて雅景は隠そうとしたが、もう遅い。


乱暴に捲れ剥き出しになっていた右肩が鬱血し、痛々しい程腫れ上がっているのが薄暗い中でもよく分かった。


「……これは何でもな、」

「何でもないわけない!」綾之助は目を吊り上げ、雅景を遮ると鉄格子の間から腕を突き出し、雅景の腕を掴んだ。



「――お、おい…、」

「いいから、見せて!」

「……。はい…」綾之助の剣幕に気をされたのか、渋々、雅景は鉄格子近くに寄ると着物の前をはだけさせて右肩をさらした。



雅景の色の白い肌にくっきりと赤紫の痣が出来ていて、かなり腫れていた。……何か棒のようなもので、殴打されて出来たものらしい。



「……。これ、一体どうしたの?」

「ああ…、剣術の稽古をつけてもらってたら、ちょっとドジってな…」腫れた部分を隠し、襟元を整えると、綾之助を安心させるように笑った。だが、綾之助の顔は晴れず、余計に曇るばかりだ。



「……僕のことで、苛められたりとか…してるんじゃないの?」

「――違う」即座に、雅景は否定した。


綾之助の存在は、不知火家に仕える者のごく一部や家族しか知らないのだ。綾之助のことで、雅景が疎まれるようなことはない。



綾之助はどこか傷付いたような顔をしながら、苦笑した。


「……そういえば、そうだったね…。ごめん」

「……。俺こそ、余計な心配かけて悪かった」

「ううん」


いいんだ、と綾之助は首を振る。明らかに無理をしている綾之助に、雅景の心は痛んだ。




存在すらないものとされている存在。


忌み子と呼ばれ、忌み嫌われる存在。




「……そういえばね、兄さん」がらり、と雰囲気を変えて、綾之助は明るく言った。


「久しぶりに、外出許可がおりたんだ。――だからさ、」気のせいか、少し声が緊張しているようだった。




……


僕に……剣術、教えてくれない?




「――お前に、剣術を?」予想していなかった申し出に、雅景は一瞬痛みを忘れて目を丸くした。
綾之助は頷いて、訴えた。


「色々やってみたいんだ。……剣術を身につけて損はないと思うし…。それに、」綾之助は少しつっかえながら、頬を真っ赤にして言った。



「僕…、兄さんみたいに、なりたいんだ」



優しくて、強くて、かっこいい兄さんみたいに。




雅景は目を溢れ落ちそうなほどに見開き…、そして、吹き出した。


「わ、笑わないでよ!」綾之助は食ってかかった。耳まで赤い。


「っ、悪い悪い…」雅景は、緩む口元を手で隠した。そうでもしないと、にやけるのを我慢出来なさそうだったからだ。



『兄さんのようになりたい』



これ以上、照れ臭くて嬉しい言葉はあるだろうか。



「分かった分かった。教えるよ」

「……本当に?」綾之助の目が輝く。


「ああ、本当だ」

「約束だよ?」

「約束だ」


雅景が小指を差し出した。それに、綾之助は小指を絡ませた。



「……破ったら、許さないから」手を引っ込めて、綾之助はぼそりと言った。


「うん、分かってる」

「……これ、」立ち去ろうとする雅景に綾之助は何かを差し出した。
べたりとした、粘り気のある泥のような物が器に入っている。恐る恐る嗅ぐと、何やら薬臭い。


「僕が調合した塗り薬。使ってみて」

「あぁ、うん…」

「……信用してないでしょ?」



――図星だ。


バツの悪い顔をする雅景に、じとりと睨(ね)めつけて綾之助は付け足した。



「卍(まんじ)さんのお墨付きだから、大丈夫」


卍(まんじ)というのは、綾之助の世話係で、薬類にかなり精通しており、詳しい。


雅景はほっとして、有り難く頂戴したのだった。







………………………………



「……本当に、」桔梗がおもむろに口を開いた。


「仲の良い兄弟だったんですね…」



「――あいつには、天性の剣の才能があったんだ。呑み込みがそりゃあ早くて、すぐに俺を追い越した」狼は懐かしそうに目を細めると、杢太郎の持つ小さな箱に目を止めた。


「……それ、」

「え?」

「ちょっと貸してくれ」狼は杢太郎から箱を受け取ると、躊躇うこともなく蓋を開けた。ふわりと薬草の匂いが漂う。
狼の手元を覗き込み、神城は言った。


「それ、咲の簪と一緒に置いてあったんだよ。……えっと、塗り薬か何かか?」

「……」

「? 狼?」



狼は、無言で蓋を閉じると、ようやく、血が止まりつつある鈴鳴の治療をしてくれている医者の前にそれを差し出した。
医者は手を止め、差し出されるままに受け取った。


「狼隊長、これは…?」

「傷薬だ。……使ってやってくれ」



医者は蓋を開け、匂いを注意深く嗅いだ。


……特に説明されなくても分かる。これは、恐らく、あの綾都が調合したものなのだ。牢の中で綾都が学び、極めた医術の一端なのだろう。



「……毒だったりして」それを頬杖をつき、観察していた玄がぼそりと呟いた。
皆の顔に、微かな緊張が走った。


――薬は転じて毒にもなる。


しかし、それをやんわりと、だが、はっきりと医者は否定した。



「見たことのない薬草の組み合わせではありますが、毒ではないようです」

「……なら、構わないけど」


玄は肩をすくめ、狼を見やった。微かに心配しているのが感じられる眼差しに、狼は寂しげな笑いを返した。


「……牢の中で様々なことを学んでいく内に、あいつは気付いたんだ」



『――ねぇ、兄さん』


『僕は……、どうしたらいいんだろう…?』




……


どんなに医術や剣術に優れていても、自分に日が当たることはない。



所詮、影は影なのだと。




認められようと頑張れば頑張るほどに、父親や回りの自分を見る目は冷たくなっていく。畏れや憎しみの色ばかり濃く、はっきりと形をなす。


……どうすればいいのか、わからなくなった。




ふと足を止めれば、やはり独りで。


回りを見渡せば、幸せな、自分と違って恵まれた兄がいて。




どうして、自分ばかり


独りぼっちなのだろう…?




――底しれぬ孤独感。


綾都の心は破裂寸前だった。



「……そんな時に、」





母が死んだ。




『……ごめ、んなさい…』


『貴、方を…、』




『っ、母さん…!』




数少ない味方であり、綾之助を支え、愛してくれた母親、都が亡くなったのだ。


「それからは、悪い方に転がるばかりだったよ」



父親はますます綾之助に冷たく接するようになり、影で綾之助のことが悪く囁かれるようになった。




……


都が死んだのは、綾之助を案じるあまりの心労が原因だ、と。




「そ、」神城が思わず、立ち上がった。



「そんなの、ただのあてつけじゃんか…!」神城の憤りの声が部屋に響き渡る。


「おかしいだろ!? だって、」

「……ああ」狼はうつ向き、自分の両手を見つめた。




――おかしい。




おかしかったのは、周りの方だったのに。



「……ある日、」




とうとう綾之助の心は耐えきれず、壊れてしまった。


――暴走したのだ。




「……霧雨の降る、静かな夜だったよ」



――今でも思う。


"本当に"どうしてやることも出来なかったのだろうか、と……。










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