ただ、君は泣いていた。
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虫達さえも寝静まったのか、と錯覚するほどの静かな夜のこと。
――闇の中、一つの人影が動く。
どうやら、人影は男のようだ。息を潜め、足を忍ばせ、恋人のところにでも忍んで行こうというのだろうか。
全く足音を発てることなく、廊下を滑るように突っ切ると、廊下から庭先に置かれた平らな石へと猫のように俊敏な動きで着地した。
人影は石の上で、すくっと立ち上がる。
雲からようやく顔を覗かせた月明かりによって、照らされる横顔は、色白で端正な顔立ちをしており、目が若干垂れ目がちなのがご愛嬌だ。
ぐるり、と辺りを見回し、人の気配がないことを確認してから、そのまま、土で汚れるのも構わず、裸足で歩き出した。
……何やら、急いでいるらしい。
男は池の横を通り過ぎ、羽虫を追い払いながら、巨大な蔵の前で立ち止まった。
見るからに頑丈な蔵にお似合いの扉にかかる南京錠を持ち上げ、懐から取り出した鍵を鍵穴に射しこんだ。
易々と南京錠を外し、男は蔵の中に侵入した。
――蔵の入口には、ほのかな灯りが一つ。
毎晩絶えることなく、灯って(ともって)いた。
蔵の奥の奥で、何かが動いた。ほのかな灯りでは照らし切れない薄暗い中で、男のものではない足音が響く。
足音に金属が擦られる音が混じって、止まった。
「……誰?」
警戒しているというよりは、脅えた声音。
出来るだけ、明るい声で男は呼びかけた。
「――、俺だよ。綾(あや)」
「! に、兄さん?」脅えた声が、驚いたような声に変わった。
――なんで、ここにいるの?、と続けて問う声に、――男、不知火藤右衛門雅景(しらぬいとうえもんまさかげ)は近付いた。
霞んだようなほの暗い闇に、鉄格子が映る。
座敷牢というよりは、檻に近い代物だ。
その中にいるのは、彼の弟、不知火蔵之丞綾之助(しらぬいくらのじょうあやのすけ)である。
綾之助は、布団から身を起こし、目を見開いている。
「いや、眠れなくってさー。――どうだ? 綾はちゃんと眠れてるのか?」
「……父さんに怒られるよ」
うつ向いて、鉄格子越しで綾之助はぼそりと言った。
檻の前に座って、狼は懐手をしながら、からからと笑った。
「そんなもん、言わせとけばいい」
「……母さんも心配するよ」
「心配させとけば、いいさ」
「、っ兄さん!」顔を上げた綾之助が厳しい目で、にこにこ笑う兄を睨んだ。
「また…、母さんの具合が悪くなったら、どうするんだよ!」
「――ま! 要するに、バレなきゃいいんだろ?」
「兄さんったら!!」
綾之助は額にかかる髪をかきあげ、眉間に皺を寄せた。
おぼろげな闇の中でも、特異な髪の赤色は鮮やかに映える。
「兄さんが来てくれるのは…、そりゃあ嬉しいけど…。――でも、」
「俺は来たいから来たし、ここにいたいからいる。――別に、何も問題ないだろ?」
「……」
問題がないわけではないから、困っている。
綾之助としては、兄の雅景が話し相手となってくれるのは嬉しいが、父親である、不知火藤次郎重成(しらぬいとうじろうしげなり)が許さないだろう。
「絶対、バレない。――大丈夫だ」兄ちゃんに任せろ、と呑気に笑う兄の雅景に負けて、綾之助は布団から出ると脇に避けていた座布団の上に座った。
「――今日は、何の話をしてくれるの?」
「今日はな、」
いつの間にか、綾之助は笑みを浮かべ、雅景の話に聞きいっていた。
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君と、話をしよう。
時間を忘れるくらい、
君と、笑い合おう。