「あ」
 灯(あかり)ちゃんだ。
 休み時間、ちょっと廊下に出たところで、僕は灯ちゃんの姿を見かけた。灯ちゃんは友達と二人で、こちらには後ろ姿を見せていて僕に気が付く様子はない。声をかけようかな、と思って、でも友達も一緒だしやっぱりやめておこうかな、と思い直したところでふと、灯ちゃんたちの話す声が聞こえてきた。
「で、例の彼とはその後どうなのよ?」
「えー?」
 え?
 灯ちゃんの友達の意味深な様子と灯ちゃんのちょっと困ったような反応に、僕は、おや? と思った。あれ? ひょっとして、話題は僕のこと?
 僕は二人の話に聞き耳を立てた。本当はよくないのかもしれないけれど僕のこととなればやっぱりちょっと気になる。
「うーん……」
 ところが、灯ちゃんはなんだか歯切れが悪い。すぐにあれこれ話し始めるだろうと思ったのに。照れているわけでもなさそうな、何か、迷っているような?
「あれ? どうしたの?」
 友達の方もそんな灯ちゃんの様子が気になったようだ。そしてそう尋ねられてやっと灯ちゃんは、
「それがさあ」
 その声に、僕はどきっとした。それはときめきなどとは違う、むしろ悪い予感のようなものだ。
「なんか、思ってたのと違う気がするんだよね」
 違う?
「何それ、どういうこと?」
 これ以上聞いてはいけない、と思った。けれどもここで引き返すこともできなかった。僕はただ二人の後ろでその話に耳を傾け続けているのだった。
「もしかして、別れたいってこと?」
 そんなことないと否定してほしかった。僕は祈るような気持ちで次の灯ちゃんの言葉を待つ。
「ていうか……」
 すると確かに、灯ちゃんの返事はそれを否定するものだった。
「そもそも付き合ってたのかな、みたいな」
 ……。
 僕は今度こそ頭が真っ白になって、もういつその場を離れていつ教室に戻ったのかもよく覚えていないのだった。


 休み時間が終わって次の授業が始まっても、僕はまだ呆然としていた。もちろん授業なんか頭に入ってこない。
 思ってたのと違う、と灯ちゃんは言っていたけれど、それってどういう意味なんだろう。灯ちゃんの中では何か理想のイメージがあって、僕はそれとは違っていた、てことなんだろうか。
 勝手だな、と思った。そうなのかもしれないけどそれは勝手だな、と。
 何かがふわりと僕の目の前を通り過ぎてゆく。蛍よりも優しく儚く光って見えるそれに、僕はそっと手を伸ばしてみる。
 ねえ、君もそう思うだろう?
「これは魔物ですよ」
 その時突然聞こえてきた冷ややかな声に、僕は凍り付いたように動きを止めた。
 それは、僕の声だった。
 僕はそれを、思い出したのだった。


   ***


 僕はとある街の片隅で一休みしていた。街、といってもコンクリートやアスファルトの街並みではなく、山並みや田んぼの広がる田舎でもない。石造りの、西洋の古い街並みといった雰囲気だ。一緒にいるのは僕の師匠のような相棒のような男性。僕たちは、魔物を滅ぼすために魔物の本拠地を探す旅の途中だった。
 ぼんやりと通りを眺める僕の目の前を何かがふわふわと横切っていった。丸くてぼんやりと光っているような何か。見たのは初めてだった。
「なんですか、これ」
 そう尋ねる僕に彼は答えた。
 それは、人の心の暗いものや良くないものにふれると、それに応じてまるで魔物のように変化し、災いを起こすものなのだそうだ。ただ、逆にそういったものがなければ特に害はないため、それを見かけた時はなるべく平常心でいなければならない。
 つまり、通常は無害なそれが魔物なのかどうかは判断の別れるところなのだという。
 だから気にすることはない――、魔物が現れたのかと思った僕を察して、彼は遠回しにそう言おうとしたのかもしれない。
 けれども僕は、気付けば剣を抜きそれを斬り捨てていて、冷ややかに言い放つのだった。
「これは魔物ですよ」
 きっと驚いているだろう彼に、
「僕がこうして斬ることができるのですから」
 ――僕の持つ剣は、人を斬ることはもちろん、動物や植物でさえも斬ることができない、剣の形をしたただの棒でしかない。魔物を斬っているのは剣ではなく僕の中にある力だった。神だとかいう訳の分からない奴から勝手に押し付けられた力だった。それは魔物を見れば倒さずにはいられないという、魔物を倒すには都合がいいのかもしれないが非常に厄介なものだった。
 僕は嫌だった。魔物も、神も、力も、旅も。そんな訳の分からないものを押し付けられて、なのに僕にはどうすることもできないなんて。


   ***


「…………」
 それは確かに、いつか夢で見た光景だった。だから、それはただの夢でしかないはずだ。なのに、それじゃあ、どうして。
「あっ」
 いけない、と思ったのは目の前を漂っていただけのそれが急に天井近くまで舞い上がり、ヒュンと教室の窓をすり抜け廊下へと出て行った時だった。
 いけない。
 それは人の心の闇にふれると悪いものへと化し災いを起こす。つまり、今、僕の心のもやもやのせいで悪いものへと変化したあれは、その原因となった灯ちゃんの元へと向かったのだ。
 僕が立ち上がったのと隣の教室から悲鳴が聞こえてきたのとどちらが早かっただろう。
 とっくに授業どころではない。僕は隣の、灯ちゃんがいるはずの教室へ向かった。そこには鬼のような竜のような怪獣のような分かりやすい形の魔物がいて、灯ちゃんの前に立ちはだかっていた。生徒たちや先生までもが混乱している中、ただ灯ちゃんだけが冷静に見えた。いつかのような険しい顔で魔物をにらみ付けている。
「――――」
 と、灯ちゃんが何かを言った。魔物に向かって何かを命じた、ように見えた。するとその声に応じて魔物の姿はぐにゃりと歪み、まるでどこかへ吸い込まれてゆくようにして消えてしまったのだった。
 魔物が消えて急に奇妙なほど静かになった教室の中、灯ちゃんは今度はまっすぐに僕を見た。まるで魔物を――いや『異物』を見るような、厳しい目で。


 ――はっ、と気が付くと、僕は自分のクラスの教室の自分の席に座っていた。前の黒板のところでは先生が何か話していて、他のクラスメートたちも静かに席についている、いたって普通の授業風景だ。
 いったい何がどうなっているのか分からなかった。確か僕は隣のクラスの教室にいて、そうだ、魔物が現れて――。
 僕は耳をすませてみたけれども、隣の教室が騒がしくなっているような気配は感じられない。ここと同じように静かに授業が行われている、そんな様子だ。
 でも確かに、ともう一度記憶をたどりかけたところで、後ろから背中をつつかれた。そっと振り返ると後ろの席のクラスメートがにやりと笑っている。
「お前さ、今寝てただろ」
「え?」
 寝てた?
 僕はあいまいに笑ってその場をごまかした。それから、あ、そうか、と少し遅れて状況が飲み込めてきた。
 そうか。僕は今居眠りしてたのか。つまりさっきの魔物も夢だったんだ。そう考えるとすっきりした。なんだ、さっきのがあまりにもリアルな夢だったから、ちょっと混乱してしまっただけだったんだ。
(本当に?)
 とりあえず居眠りがバレたのは後ろの席のクラスメートだけだったみたいだ。先生にバレなくてよかった、と思いながら僕は今度こそ真面目に授業を受けることにした。
 けれども、
(そういう夢ってね、実はただの夢なんかじゃなくて、いつかどこかで起きた現実なんだってこと、けっこうあるんだから)
 そんな灯ちゃんの言葉が、どうしても頭から離れないのだった。


 その日、僕は少し具合が悪いと言って学校を早退することにした。実際本当に何だか気分はすぐれなかったし、何よりこのまま放課後になって、いつものように灯ちゃんと一緒に帰るのが――灯ちゃんに会うのが、少し怖かったのだ。



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