「ねえ、翔(かける)くん」
 ある日の帰りのバスの中、僕が降りるバス停も近づいてきたところで、僕の隣に座る灯(あかり)ちゃんが言った。
「今度の日曜日なんだけど、翔くん、何か予定ある?」
「え? いや、特にないけど」
 僕がそう答えると、灯ちゃんはなぜだか少し緊張した様子で、
「それじゃあ、えーと……あの、今度の日曜日、あたしちょっと出かけようかなって思ってるんだけど、よかったら、翔くんも一緒に行かない?」
 あれ? これってもしかして、いわゆるデートのお誘いってやつですか?
「行く」
 僕は即答した。
「もちろん行くよ」


 日曜日。
 僕たちは近くの駅で待ち合わせて普段は乗らない電車に乗った。私服の灯ちゃんはボーイッシュな感じでけれどもとても可愛かった。僕たちが向かったのは少しだけ遠い街の、いわゆるショッピングモールだった。灯ちゃんと僕は一緒に雑貨とか文房具なんかを見て回った。可愛いノートの前で灯ちゃんが悩んでいたのでせっかくだからと僕が買ってあげることにした。二人でガチャガチャを回したら同じものが出てお揃いだねと笑った。フードコートで一緒にごはんも食べた。奮発してデザートも食べた。色々見たけど結局百均だよねといって百均にも行った。灯ちゃんはせっかく来たんだからとあれこれ買い物していたけれど僕はそんな灯ちゃんを見ているだけで楽しかった。いろんなものを見て、いろんな話をした。そうして一日はあっという間に過ぎていった。


 そして、その帰り道のことだった。
「いやー、ちょっと疲れたけど楽しかったねー」
 僕と灯ちゃんは駅のベンチに一緒に並んで腰かけて夕方の電車を待っていた。
「なんか、久しぶりにこうやっていろいろ見て回れた気がするなあ。充実したっていうかリフレッシュできたみたいな」
 しみじみとそんなふうに言う灯ちゃんはとても満足げに見えた。楽しかったのは僕も同じだった。けれど、
「ほんと、一日があっという間だったね」
 僕はなんだか少し寂しくもあった。まだ帰りたくないような、まだ終わってほしくないような。
 そんな気分でちょっとぼんやりしていると。
「……?」
 何かがふわりと僕の目の前を通り過ぎた。
 それは、ぼんやりと光っているような、半透明の丸いもの。シャボン玉にも見えたけれども少し違う気もした。例えばこれがカメラとかメガネみたいなレンズ越しの景色なら、そのレンズについた水滴が丸く映り込んでいる、そんな様子に近かった。けれども目の前にあるのはもちろんカメラ越しの景色などではないし、さらに言えば僕はメガネもコンタクトもつけていない。
 じゃあ、これは何だろう。
 その丸いものはふわふわと僕の――僕と灯ちゃんの前を漂っていた。それもいつの間にかその数も増えているようだった。
 僕は傍らの灯ちゃんの様子をうかがってみた。これは灯ちゃんにも見えているのだろうか。もしかしたらこれは僕だけが見ている幻覚か何かなんじゃないだろうか。いや、実はそんな大げさな話でもなくてただ単に僕の目の調子が悪いだけだとかそういう話なのかもしれない。そんなふうに思ったのだ。
 するとどうやらそれは灯ちゃんにも見えていたようで、灯ちゃんはじっとそれの一つを目で追っていた。それも、なぜだろう、なんだかとても険しい顔で、まるでにらみつけるように。そして、
「――」
 灯ちゃんが聞き取れないくらいの声で何かを言った。
「え?」
 何か言った? と僕は尋ねようとした。けれど、
「えっ?」
 それより先に驚いて僕は声をあげた。というのも、僕らの前を漂っていた丸い何かが、突然ぐにゃりと歪んで消えてしまったのだ。まるで灯ちゃんの言葉に呼応するように――まるで灯ちゃんが何かしたみたいに。
 さらに灯ちゃんは続けて何かを呟いて、いくつか漂っていたそれらも同じように次々と消えていった。その様子は、つぶれるとか割れるとかいうよりもどこかへ吸い込まれていくように見えた。
 そうして、それらがすべて消えてしまうと、そこで灯ちゃんはやっと表情を緩めて一つ息をついた。
「……」
「……えーと」
 気まずそうに僕をちらりと見て、
「あ、電車、何分だったっけ」
「いや違う違う」
 思わず僕は突っ込んでしまった。
「あのー、灯ちゃん。今の……何だったの、かな」
 僕が尋ねると、灯ちゃんは困ったように苦笑いした。
「参ったなあ。やっぱり翔くんにもあれ見えてたんだ」
 それからふと真面目な顔になると、
「あれは、『異物』よ」
 そう言った。
「異物?」
「この世界の外側から、この世界に入り込んできてしまった、この世界には属さないもの」
「……?」
 この世界の……何だって?
 僕がぽかんとしていると、灯ちゃんは一つため息をついて、
「少し長くなるけど、いいかしら」
 そう前置きして話しはじめた。
「世界とか宇宙とか呼ばれているものって、あたしたちのいるこの世界の他にもたくさんあって、基本的にはそれぞれ独立していて互いに干渉することはないそうなんだけれど、時には世界に穴を開けて違う世界から入って来る『越境者』や、『越境者』が開けてしまった穴からさらに入り込んできてしまう『異物』とかいうのがいるそうなのね。で、そんな違う世界から勝手に入ってきてしまったものをそのまま放置してたら、この世界にも、それが本来存在していたはずの別の世界の方にも、何か良くない影響が出てしまうかもしれないんだって。だから、あたしはそういったものを元の世界へ還してあげて、開いてしまった穴を塞ぐ、そんな活動? をしてるってわけ」
 話し終わると灯ちゃんはまたひとつため息をついた。そしてまた僕の方を見た。
「おかしなこと言うおかしなやつだって、思ってる?」
 不安げに。
「そんなことない」
 僕は即座に否定した。
「不思議な話だとは思うけど、おかしいとか嘘だろうとかそんなふうには思わない。きっとそんなこともあるんだろうって、信じるよ」
 すると灯ちゃんは驚いたように少し目を見開いた。
「ありがとう」
 そして微笑んだ。それはなんだかほっとしたようにも見えて、僕も、よかった、とほっとした。
「でもさ、灯ちゃん」
 ただ、僕には少し気になったことがあった。
「僕にはあれがそんなに悪いものには見えなかったんだけど」
 さっきの灯ちゃんは正直ちょっと怖かった。『異物』とかいうものに対する厳しさというか容赦のなさのようなものを感じた。けれども僕には、あれがそこまで悪いものには見えなかったのだ。
「どうしてそう思うの?」
 一瞬灯ちゃんの表情が少し険しくなった気がした。僕は慌てて、
「いや、なんかただふわふわ浮いてるだけで別に悪いこともしなさそうだったし、見える人も限られているみたいだったから辺りがパニックになることもないみたいだったし……」
「それだけ?」
「……」
 僕は答えに詰まった。それだけではなかった。むしろそれ以上の理由があった。ただそれは話そうかどうしようか少し迷っていたことでもあったのだ。けれども灯ちゃんはまだ僕の答えを待つようにじっと僕を見ている。
「……えーとあのね、さっき急に思い出したんだけどね、実は」
 実は、僕があれを見たのは、今日が初めてではなかったのだ。
 それがいつだったのかは覚えてないしどんなきっかけで現れたのかも分からない。けれど、僕はその時ちょうど少し落ち込んでいて、ただぼんやりと漂っているだけのそれはむしろ僕をなぐさめ励ましてくれているようでもあったのだ。
「そうなんだ……」
「あ、今日はもちろんとても楽しかったよ。楽しすぎて逆にまだ帰りたくないなーとか終わっちゃうの嫌だなーとか思ってたくらいで」
「うん。分かってる。あたしも楽しかった」
 そこでちょうど電車が来て、その話はそこまでになった。電車の中ではまた普通に今日のこととか何でもない話をしながら帰った。
 もう、よく分からないものが――灯ちゃんの言う『異物』が、現れることはなかった。


 そうか。
 灯ちゃんとは駅で別れ、一人になった帰り道で、突然、僕は気が付いた。
 きっと灯ちゃんもまた、世界を護る、勇者のような存在なんだ。



[←前] [次→]
小説トップ
- ナノ -