「翔(かける)くん! もう大丈夫なの?」
 その日、少し久しぶりの僕の姿に、灯(あかり)ちゃんはそう言って目を丸くした。
 あの日僕が学校を早退したことやその後ちょっと学校を休んでしまったことも、灯ちゃんは知っていたんだろう。驚くと同時に少し心配そうだった。
「うん。ごめんね、心配かけて」
「ううん、元気になったんならよかった」
 灯ちゃんは笑顔でそう言ってくれた。僕も笑顔でこたえようとしているつもりだけれど、果たしてうまく笑えているだろうか。
 時刻はすでに放課後だった。朝はバスも混雑していて声もかけられないし、休み時間は灯ちゃんも僕もそれぞれ他の友達と過ごしている。それはいつものことだったのに、ずっと放課後にしか会えてなかったんだと思うと今更ながらに寂しかった。
「あのね、灯ちゃん」
 いつものように歩きだしながら僕は話を切り出す。
「え、なに?」
 けれども僕のその声の暗さはさすがに伝わってしまったようで、灯ちゃんは怪訝な様子だ。
「僕は……」
 そう、僕には灯ちゃんに話したいことが、いや、話さなければならないことがあった。
「僕は、全部思い出したよ」
 自分が本来は違う世界にいたことも、そこから逃げてきたことも、あの世界で呼ばれてた名前も。
 僕はあの世界でもいたって普通の学生だった。それがある日突然魔物退治の旅に出ることになってしまったのだ。僕はそれが嫌で、ただそれまでの普通の生活に戻りたくて、逃げ出し、そして、落ちたのだ。その時は崖から落ちたと思ったけれども、あの時僕が落ちたのはきっと崖ですらなくて、おそらくは世界に開いた、あるいは僕が世界に開けてしまった、穴だったのだろう。
「つまり、僕は灯ちゃんの言う『越境者』で、本当はこの世界にいちゃいけない存在なんだ」
 気が付くと僕はこの世界で『天野(あまの)翔』として過ごしていた。普通に学校に行ったり、家族と過ごしたり、そうした何でもない日常はまさに僕が望んでいた理想で、幸せだった。けれどもそれはきっとこの世界に何か良くない影響を及ぼしてしまうことなんだ。
 僕の話を灯ちゃんはただ静かに黙って聞いてくれていた。僕はなんだかつらくて、灯ちゃんの顔を時々しか見ることができなかったけれど、灯ちゃんはずっと、じっと僕を見つめてくれていたようだった。
「ねえ、灯ちゃん。だから灯ちゃんは僕に声をかけたんでしょう?」
 最初から僕がそういう存在だと知っていて、僕を元の世界に戻すために。
 すると灯ちゃんはちょっとだけ笑った。そして、
「そうよ」
 うなずいた。
「あなたから『異物』と『越境者』の気配を感じたから。だから少なくとも何か手掛かりが見つかればと思って、最初からそれだけのつもりであなたに近づいたの」
 ばれてしまったものは仕方ない、というような苦笑いでひとつため息をついて、
「だから、あなたはあたしを恨んでいい。この世界でのことを、いい思い出なんかにしないで。そして全部忘れて」
 どうか。
 灯ちゃんの声には何かを願うような響きがあった。それが言葉通りのことなのかそれとも逆の意味なのかは分からない。ただ、どちらにせよ、僕にはそんなことできるわけがなかった。この世界での思い出を、ましてや灯ちゃんのことを忘れるなんて。
 本当は嫌だった。戻りたくなんてなかった。ずっとここにいたかったし、何より、ずっと灯ちゃんのそばにいたかった。けれどもそれを言うわけにはいかなかった。言ったところできっともうどうしようもないだろうし、そんなことを言ったらきっと、灯ちゃんを困らせてしまうだろうから。
「そうだ。ねえ、すべて思い出したところで、あなたにひとつきいておきたいんだけど」
「え、何?」
「あなたの前に、違う世界の存在をほのめかすような人物は現れなかった? たとえば、悩んでいるあなたに近づいて、あなたをそそのかして、こうなるように仕向けた、いわば黒幕のような存在が」
 黒幕?
「……いや、そういうことはなかった、と思うけれど。例えば、違う世界を舞台にした物語はあったかもしれないけど、それくらいで」
 そう答えながらふと、そういう存在もあるのかもしれないと思った。人を惑わし、異界へと連れ去る魔物のようなものが。
「ただ、僕が落ちたのが、勝手に開いたものや僕が開けてしまったものではなくて、何者かの仕掛けた罠だった可能性はあるのかもしれないけど」
「そう……。分かった、ありがとう」
 でも、どうしてそんなことを?
 僕はそう尋ねようとしてやめた。きっとそれが灯ちゃんの最終的な敵なんだろう。
「――それじゃあ」
 そう言うと灯ちゃんは表情を引き締めた。それはいつかのように厳しい、けれども少しだけ悲しげな。 そうか。いよいよなんだな。
「うん、それじゃあ」
 その時が来たら、僕は泣くんじゃないかと、ついさっきまで思っていた。けれどもなぜか不思議なくらいすがすがしい気分だった。
「たぶん、目は閉じてたほうがいいと思うけど」
「うん」
 灯ちゃんの声が聞こえてきた。日本語とは違う、僕の知らない不思議な響きのそれは、呪文というよりはまるで音楽のようだった。
「……灯ちゃん」
 僕は、灯ちゃんに出会えてよかったと思ってるよ。確かに、灯ちゃんに出会わなければ――見つからなければ、僕はあの世界に戻らなくて済んだかもしれない。けれども、それでも灯ちゃんと出会って、話して、過ごした時間はとても楽しかった。僕にとってとても大切な時間になったんだ。だから、
「ありがとう」



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