野良猫


 それは、ちょっと昔の話。


「あのね、アカネちゃん。今度うちに家庭教師のかたが来て下さることになったの」
「えっ。なんで」
 ある日、お母さんからそう言われて私は驚いた。まあ確かに学年トップとまではいかないけれども別にそこまで成績が悪いわけでもない、と思ってたのに。
「それがね、詳しいことはよく分からないんだけど、何かよろしくお願いします、みたいなことになっちゃって」
「うーん」
 よく分からない。
「まあ、ちょっと年上のお兄さんが時々遊びに来てくれる、くらいに思ってればいいから」
「……うん」
 ちょっと年上のお兄さん、か。年頃の娘にそんなの近づけていいもんなんだろうかとちらりと思ったけれども、まあ家庭教師なんてそんなもんかと思い直した。
 どんな人が来るのかなあ。
 ちょっと面倒くさいな、というのが正直なところだった。


 数日後、学校から帰ってきたところで、家の前に男の人が一人ぽつんと立っているのを見つけた。そういえば今日から例の家庭教師が来るんだった、と思い出す。あの人がそうなのかな。
 こんにちは、と声をかけようかと思ったところで、こちらの気配に気づいたのか彼がこちらを見た。
 目が合った。
「……」
 私はその場に立ち止まってしまっていた。何故かそうしなければいけないような気がしたのだ。
 彼はじっとこちらを見ている。私も彼から目をそらせないでいる。
 なんだか野良猫を相手にしているみたいだと思った。その猫はケガをしていて早く捕まえて手当てをしてあげなきゃいけないんだけれど、うかつに近づいたら逃げられてしまう、みたいな。
 なんでそんなことを思ってしまったのか理由は説明できない。ただ直感的にそう思っただけだ。
(何かよろしくお願いしますということになっちゃって)
 そうお母さんが言ってた意味も分かった気がした。きっと、私たちから家庭教師を頼んだんじゃなくて、私たちの方がこの野良猫の世話を頼まれたんだ。
「……大丈夫よ」
 私はそう声をかけていた。
「何もしないから」
 私は彼と目を合わせたまま、少しずつ彼に近づいていった。相手の様子を探りながら、ゆっくり距離を縮めていく。逃げられないように。
 そして手を伸ばせば届く距離まで近づくと私はぱっと彼の腕をつかんだ。彼はびくっとして身を引いたけれども私を振りほどいて逃げ出すなんてこともなくて、私はほっと息をついた。よかった、捕まえた、と思ったところで私ははっと我に返る。いや、捕まえたじゃないよ何をやってるんだ私は。
「あ、あの、その、えーと」
 急におろおろしてしまう私に、じーっとこちらを見ていた彼の表情がふと緩んだ。
「君が、アカネちゃん?」
「あ、はい。えーと、家庭教師の方ですか?」
「はい。そうです」
「あの、なんかすみません。ああそうだ、どうぞ」
 私はとにかく彼を家へと案内した。気がつけばまだ、その腕をつかんだままだった。



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