行き倒れ


 行き倒れ、を初めて見た。
 学校からの帰り道、もうすぐ家だというところで、僕の行く手をさえぎるように、分かりやすく人が倒れていた。
 この道、狭い割には大型トラックとか平気で通るのに。危ないなあ。
 僕は屈んでその人を観察してみた。いわゆるリクルートスーツ姿の女の人、もちろん知らない人だ。生きてるのかな、と思ったところで彼女のおなかがぐううううと大きな音を立てた。とりあえず生きてはいるようだ。
「オバサン、何してるの?」
 僕は子どもらしく声をかけてみた。
「……オバサンじゃないです」
 するとうめくような声で返事をした。なるほど、オバサンと呼ばれるのにはまだ抵抗のある年頃らしい。でも小学生の僕からしてみれば大人の女性はみなオバサンだ。
 何か食べるもの持ってなかったかな、と僕はポケットをさぐってみた。ちょうどいいことにアメが入っている。取りだそうとしたところで、けれどもアメはぽろりと転がり落ちてしまった。
「あ」
 その瞬間、ものすごい勢いで彼女の手がアメに伸びた。ただ残念なことにその手は届かず、むなしくじたばたしていたけれども。
「はい」
 そこで僕はアメを拾って彼女にあげてみた。すると一瞬で食べた。包装ごと食べたんじゃないかと思うほどの勢いで食べた。面白かったのでもう一個あげてみた。これも瞬く間に食べた。ゴミはちゃんとポケットに入れていた。
「ありがとうございます! あなた様は命の恩人です!」
 アメ二個を食べてしまうと彼女は飛び起きてそう言って土下座した。アメ二個ですごい回復力だ。
 そんな僕らのすぐ脇を、ゴーッと音を立てて大型トラックが通りすぎていく。うん、やっぱりこんなところで倒れたり土下座したりするのは危険だ。そう思って僕は立ち上がるとまだ土下座したままの彼女にも声をかけた。
「ねえオバサン、立てる?」


 僕はひとまず彼女を家に連れていくことにした。
「……」
「何してるの」
「豪邸……」
「……」
 そうかなあ。
「そんなことないよ。いいから早く入って」
「あ、はい。おじゃまいたします」
「そこに座ってて」
 家に入ると僕は、きょろきょろしている彼女をとりあえずダイニングテーブルのところに座らせて、家で一番大きいどんぶり(普段はラーメンとか食べる時に使うやつ)にご飯を盛って彼女に出した。
「どうぞ」
「ごはん! いただきます!」
 すると思った通り、いや思った以上の勢いで彼女はご飯を平らげていった。一応ふりかけも用意してみたけど白いご飯だけで十分だったようだ。
「ところで、どうしてあんなところに倒れてたの?」
 おかわりをかきこんでいる彼女の様子を眺めながら僕は尋ねてみた。
「ぼっ、ぼがががふいへへ」
「ごめん、ぜんぜんわかんない」
「……、お腹が空いてて限界だったんです」
「どこかに行こうとしてたの?」
「職安に行こうとしてたんですけど……」
 徒歩で? 僕は頭の中に地図を描いてみた。ここから歩いて行くにしてもけっこう遠い。どこから歩いてきてたんだろう。
「お金は?」
「ありません」
 だろうね。
「家は?」
「ありません」
「え」
 家はどこ? のつもりで僕は聞いたのに意外な答えが返ってきて僕は一瞬固まった。
「あ! でも履歴書ならちゃんと持ってます!」
 すると彼女は何を思ったのかそう言ってポケットから封筒を取り出し僕に差し出してきた。いや僕に見せたところでと思ったけれども僕もつい反射的にそれを受け取って開けてしまう。
「……」
 僕は彼女の履歴書にざっと目を通した。行き倒れの名前はシズカ。歳は三十。僕との年齢差は十九。親子でも通りそうな年齢差だ。
「ふーん」
 僕は履歴書を元通りに封筒に入れてシズカに返した。シズカはそれをまた大事そうにポケットにしまいこんだ。これさえあれば大丈夫、そう思ってるみたいだ。
「オバサン、シズカっていうんだ」
「はい!」
 シズカは元気良く返事をした。
「僕はイズミ」
「イズミ様ですね!」
「様はいらない」
「じゃあ、イズミちゃん……?」
「男だよ! 見て分からないの?」
 えへへ、とシズカは笑った。目の前のどんぶりはすっかり空になってしまっている。結局、僕の今日の夜と明日の朝にと思って炊いていたはずのご飯を、全部シズカが食べてしまった。これだけ食べればさすがにもうおかわりは言わないだろう。
「……ねえ、シズカ」
 気がつくと僕は言っていた。
「家がないんだったら、ここに住めば?」
「え?」
 え?
 シズカはぽかんとしている。一方僕も自分で自分の発言に驚いている。いや、何言ってるの?
「部屋ならあるし。何もしないのは逆に居心地が悪いっていうなら家のこととかしてくれればいいし」
 けれども僕はさらに続けてそんなことまで言ってしまっている。そしてぽかんとしていたシズカの表情もやがてぱあっと明るくなった。
「はい! ありがどうございます! よろしくお願いします!」
 シズカは勢いよく頭を下げた。額がテーブルに当たるゴンという音がけっこうな大きさで響いた。これは痛かったんじゃないかな。
「……よろしく」
 僕はため息をついた。仕方ない、言ってしまったものは。
 そうだ、例えばもしこのままシズカを外に放り出したとしても、きっとまたすぐにどこかで行き倒れてしまうだろう。つまりこれは人助けだ。昔話だったら後から恩返しをしてもらえるような、いつか自分にとっても何か良いこととなって返ってくるようなことだ。だからこれでいいんだ。
「あのー……、すみません、ごはんはまだありますでしょうか……?」
「ええ!? まだ食べるの!?」
 これでいいんだろう。きっと、……たぶん。



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