黒い月


「あら?」
 洗濯物を干す手を止めて、白紗(びゃくさ)は空を見上げた。なんだか日差しが弱くなったような気がしたのだ。
 大砂漠ラーナの空はだいたいいつも晴れていて、曇ったりましてや雨が降ったりすることなどめったになかった。この時も確かに見上げた空は青く晴れ渡っている。日差しが弱くなったのは、太陽が少しずつその形と明るさを変えつつあったからだった。
「蒼嵐(そうらん)さぁん」
 白紗は少し離れたところで同じように洗濯物を干している髪の長い青年に声をかけた。彼もまた、空を見上げて顔をしかめている。彼が蒼嵐、そしてここはその蒼嵐が営んでいる洗濯屋。白紗はここで働かせてもらっているのだった。
「お日様が欠けてきてますねぇ」
「ええ、黒い月、ですね」
 白紗の言葉に蒼嵐もうなずいた。
 それはラーナでまれにみられる現象だった。『黒い月』と呼ばれているが、その正体は青い月ディアスなのだという。夜になると姿を現すディアスだが昼間に上ることもあって、その昼間のディアスが太陽の前を横切り隠してしまうことで、太陽の光が弱くなったり時には辺りが暗くなったりしてしまうのだった。
「困りましたねえ。せっかくおせんたくものを干しているところだったのに。この様子だとどうやら完全にお日様が隠されてしまいそうですよ」
「そうなんですか?」
「ええたぶん。勘ですが」
 黒い月がいつ現れるのか、そしてどれくらい太陽を隠すのかは、その時々によって違っていた。もしかしたら何か法則があってそれを知っている者もいるのかもしれないが、少なくとも一般には知られていない。
「せめて前もって分かっていれば、今日はお休みにできたんですけど」
「お洗濯もの、どうしましょう?」
「そうですねえ。とりあえず洗ってしまった分は予定通り干してしまいましょう。しかし」
 蒼嵐は空を見上げたままため息をついた。
「本当に困りましたねえ。これではせっかくのおせんたくものが乾かないじゃないですか」
 この洗濯屋は蒼嵐がほとんど趣味で始めたようなものだった。なんでも、青空の下で風にたなびく洗濯物を見るのが大好きなのだという。しかし今日はその景色もしばらくおあずけのようだった。


 『黒い月』が見られるということで、いつものように勉強のために町の長の家に集まっていた子どもたちも、外に出てそれを観察することになった。
 朱羅(しゅら)もその中にいて、黒い月を見上げていた。それはこうして見ていてもとても動いているようには見えないのに、少し目を離せばいつの間にか移動しているのだった。
 確かに、さっきまでは隠れきっていなかったはずの太陽も、今やすっかり黒い月に覆い隠されてしまっている。その黒い月の縁はぼうっと光っていて、それはたしかにいつも見ている青い月、ディアスと同じくらいの大きさだった。なるほど、あれが実はディアスなのだというのも分かるような気がした。
 このように太陽がすべて隠されてしまうのは珍しいことだと長が説明している。黒い月が現れても、太陽は一部しか隠されないことの方が多いそうだ。
「ねえ、朱羅」
 並んで一緒に空を見上げていた友人の紅娜(くな)が朱羅をつついて話しかけてきた。他の子どもたちも思い思いにざわざわしていて特に私語を咎める雰囲気はない。
「え、なに?」
 が、朱羅は何となく邪魔をされたような気がして思わず不機嫌そうに返事をしてしまった。自分でもぎょっとしたが幸いなことに紅娜にはそこまでは伝わっていないようで少し安心する。
「なんだか不気味だよね。昼なのに暗いしちょっと怖くない?」
「え? そうかな?」
「うん。なんだか魔物とか出そうな感じがする」
「魔物?」
 冗談を言っているのだろうかと朱羅は思わず笑ったが、紅娜本人は意外と本気で言っているらしい。不安げな顔で朱羅の服の袖を引きながらそんなことを言う彼女は同性の目から見ても可愛らしくて少しだけ羨ましかった。
「朱羅はそう思わない?」
「あたしは……」
 朱羅は黒い月を見上げた。自分が考えていたのはもっと別のことだ。
「もし、ディアスに行って、向こうからこっちを見たとしたら、どんなふうに見えるのかなって考えてた」
「ええ?」
 今度は紅娜が目を丸くした。
「ディアスに行く? それってどういうこと? そもそもディアスって行けるものなの?」
「えーと……、なんかすごい昔は行ってたとかなんとか、聞いたことがあるような気がするんだけど」
「それってただの言い伝えじゃないの? だってディアスには神様が住んでるんでしょう? そうか、神様なら確かに行ったり来たりできるのかもしれないね」
「いや、うーん」
 何か違うような気がするとは思ったけれども、もう何だかよく分からなくなってきた。むしろ紅娜のような感じ方のほうがどちらかと言えば一般的みたいな気もしてきて、やっぱり自分は少し変わっているのかもしれないと、朱羅はこっそりため息をついた。


 窓から差し込む日の光に、青綺(せいき)は目を覚ました。朝かと一瞬混乱したがすぐにそうじゃなかったと思い直す。黒い月のせいで家の中も外も暗くなってしまい、どうせ暗いのだからと一眠りしていたところだった。
 彼女は猟師の副長だが、今日は猟は休みだった。猟師の頭である黎椰(れいや)が、急に今日は休みにすると言い出したのだ。
 まさかこうなることを予想していたわけじゃないだろうが。
 たぶんただの気まぐれだろうと思いつつも、もしかしたら勘のようなものが働いたのかもしれないとも思う。黎椰にはそういったちょっとした勘の良さとか運の良さみたいなものもあって、それが皆から頼られる要因でもあった。
 白紗と朱羅はどうしてたかなあ。
 妹たちはいつものように仕事に勉強にと出かけている。白紗の働く洗濯屋は結局休みとまではいかなかったようだ。むしろ日が差してきたこれからが忙しくなるのかもしれない。朱羅の方はめったにない機会に目を輝かせていたことだろう。朱羅は前々から特に月に興味があるようだったから。
 青綺はひとつ大きく伸びをした。妹たちには悪いかもしれないが、久しぶりにのんびり休ませてもらえたような気がする。
 窓辺に立って空を見上げれば、太陽はもうほとんどその姿を取り戻していた。ささやかな非日常も、黒い月とともに去りつつあるようだった。



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