五章(1/3)


「あれは……?」
 そんなまさか、と信じられない思いでファーレンは呟いた。だってそうだろう、これまで魔物なんか見たこともなかったのに、どうして今、まるで示し合わせたように。
「ああ、あれがいわゆる魔物ってやつだ」
 なんてこった、とフォルスも笑い出したいような気分だった。これではまるで何者かが仕組んだようじゃないか。
「だが見たところそんなに力のある奴じゃない。魔物ってのはある程度の力がないと自分の形を保つことすらできないっていうからな」
 ぼんやりとした影のような魔物の姿に、フォルスは冷静にそう分析する。実際それは魔物の中でも力のないものの特徴だった。魔物は様々な姿形をしていて、基本的にはその力の強さに応じてさながら成長するように姿を変えていくと言われている。影のように形の定まらないものからいわゆる化け物じみた姿、そしてごく少数の最上位のものになると人をも魅了するような美しい姿をしているという。
「あの程度なら俺でもなんとかできるかもしれない」
 ファーレンを背にかばいながら、フォルスは目の前の魔物にどう対処するかを考えていた。封魔師ではない彼には封魔剣を持つことは許されていないが、代わりに『お守り』と呼ばれるものを神殿から支給され、常に持つように言われていた。それは魔物を倒すことはできないが追い払うことはできるもので、同時に目印をつけるような効果もあるため、ここでお守りを使ってあれを追い払っておけば、すぐにでもちゃんとした封魔師があれを倒してくれることだろう。
「ファーレン」
 魔物から視線を外さず警戒を緩めないままフォルスは背後のファーレンに声をかけた。力のない魔物はその分力に飢えている。そのせいでかえって見境がないという一面もあるのだ。
「とにかくあんたはそっと家に戻ってるんだ」
 こいつは俺が何とかするから。


 黒い何かが蠢いているのをファーレンは呆然と見つめていた。あれが魔物なのだと、今出会ったばかりの青年、フォルスは言う。確かにファーレンも魔物の存在くらいは知っていたが、それを実際に見るのは初めてだった。これまで幸いなことにそんなものとは無縁の生活を送ってきたし、何故か漠然とそんなものは自分には関係のない話だと思ってきたのだ。
 いったい何が起こっているのだろう。
 ファーレンは眉をひそめた。魔物が現れたということは分かる。そしてどうやらフォルスは自分を助けようとしているらしいということも分かる。分からないのは自分のことだった。自分の中で起こっている『何か』だった。
 初めは、それは恐怖なのだと思った。初めて見る魔物に驚き、戸惑い、それを恐れているのだと。
 けれどもすぐにそれは違うということが分かってしまった。自分は怖いのではなかった。自分の内側に沸き上がり次第に膨れ上がっていくそれは、どうやら喜びや興奮にも似たもののようだったのだ。
 いったい何が起こっているのだろう?
 フォルスが何か言っているようだったがそれももうファーレンの耳には入っていなかった。ただ魔物から目を逸らせないでいる。そして、影でしかないはずの魔物の方も確かにファーレンを見ている。
 自分をかばうように立つフォルスの姿が突然邪魔に感じた。
 同時に、どうしてそんなことを思うのだろうとまるで他人事のようにぼんやりと思う。自分のことのはずなのにどこか遠く離れた所からそれを眺めているような感覚がする。最早『自分』はどこかに追いやられ、違う何かが『ファーレン』を支配している。
 邪魔をするな、と誰かが言った。
 戸惑う気持ちをよそにそれはファーレンを動かす。
 そしてファーレンはフォルスを押しのけるように一歩、前に出ていた。


「こいつは俺が何とか――」
 フォルスは言葉を途切らせ、傍らに目をやった。背にかばっていたはずのファーレンがいつの間にか前に出てフォルスの剣に――当然封魔剣などではない、普通の剣だ――に手をかけている。
「これ、お借りします」
「は?」
 ファーレンの言葉は、口調こそ丁寧だが有無を言わせぬものがあった。ファーレンはフォルスの方を見ることなくただ魔物だけを見ている。見開かれたその目が異様な輝きを帯びていてフォルスはぞっとした。それは獲物を狙う獣のような――いや違う、剣を振るい何かを斬ることそのものによろこびを見いだすような奴らと同じ目だ。フォルスは普段のファーレンを知らないが、少なくとも先ほどまでのどちらかと言えば大人しそうな印象とは大きくかけ離れている。
 そんなファーレンの様子に怯んだフォルスの隙をつくようにするりと抜かれた剣が無遠慮に目の前を横切り、フォルスは咄嗟にのけぞった。
「おい、何やってるんだ、あぶな」
「ぬうおおおおおおおああああああああ!!」
 危ないだろう、と続くはずだった言葉は突然の雄叫びにかき消された。
 ファーレンは走り出していた。両手で持ったフォルスの剣を重そうに引きずるようにしながら。そして呆然とするフォルスの前でファーレンはそれを魔物めがけて振り上げ――振り下ろした。
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