川辺さんと桜
川辺さんが、ぼうっと立っていた。
いや、川辺さんはだいたいいつもぼーっとしてるんだけれど、今日の川辺さんは普段座っているベンチにはむしろ背を向けて立っていた。きっと、桜を見ているんだろう。というのも、この川沿いの遊歩道には、川に近い方の土手に菜の花が、そして道を挟んだ反対側に桜が植えてあって、今がちょうどどちらも見頃のいい季節なのだ。
「川辺さん、こんにちは」
あたしが声をかけると、川辺さんは何だか驚いた様子でこちらを見た。
「ああ……、こんにちは」
どうやらあたしがいたことには気がついていなかったようだ。どんだけぼーっとしてたんだか。
「川辺さんもお花見?」
あたしも川辺さんの隣に立って桜を見上げた。満開だ。きっと川辺さんもこの桜に見とれていたんだろう。
「いや……」
ところが、川辺さんから返ってきたのは少し意外な言葉だった。
「知らなかった。ここに、こんなに、桜があったなんて」
「え?」
あたしは思わず川辺さんを見た。いや知らなかったって。ここの桜はこの近所ではちょっとした名物になっていて、あたしなんかは今年も楽しみにしてたくらいだったのに。
すると川辺さんは桜を見上げたまま少し笑った。自嘲するような、苦笑い。
「……ずっと、何も見ないようにしてきた、その代償なのかもしれないな」
「…………」
川辺さんは時々よく分からないことを言うけれど、ふと、もしかしたらさっきの川辺さんは、いつものようにぼーっとしていたとか桜に見とれていたとかじゃなくて、ただ呆然としていただけなのかもしれないと思った。突然目の前に現れたかのような桜に驚いて。さらには、そこに桜があったことにすら気がついていなかった自分自身にも、驚いて。
そしてあたしはたぶん、そんな川辺さんに目を奪われていた。さっき遠くにその姿を見つけた時も、今も。なぜだろう。満開の桜の下、ぼうっと佇む川辺さんが、ちょっと目を離した隙に消え失せてしまいそうな、そんな気がしたのだった。
「どうしたんだい?」
と、川辺さんがあたしを見た。
「いや、ちょっとね」
あたしは何となく言葉を濁してまた桜を見上げた。
「えーと、川辺さんとお花見ができて良かったなあって」
「ああ、そうだね」
川辺さんは静かに微笑んでいた。けれども、その笑顔は何だか寂しかった。まるで、散ってゆく桜のように。
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