ニーズ


「なあ伊東、ちょっとこれ見てくれよ」
 そう言って彼はケータイの画面を僕に見せてきた。彼、というのは僕の知り合いだ。というか、僕は彼のことをただの知り合いだと思っているけれども、彼は僕のことをとても仲の良い友達だと思っているらしく、よく話しかけてくる。その話は大抵どうでもいいことだ。
「何それ」
 たぶん僕も相手をするから良くないんだろうなと思いながらも僕は彼のケータイを覗き込んだ。写真だった。どうやらその辺にあった貼り紙を撮ったものらしい。どこかの研究所が所員を募集しているそうだ。
「これどう思う? マジだと思う?」
「……」
 ただその研究所の活動内容というか目的?が怪しかった。この世界の破壊とか新たな世界の創造とかわけのわからないフレーズが並んでいる。何だか研究所というよりはむしろその名を借りた悪の秘密組織のようだ。
「……いや、イタズラのたぐいでしょ」
 僕は一応そう返事をした。ただ冗談やイタズラのたぐいにしてはきちんと――変な派手さやわざとらしさもなくむしろ殺風景なくらい真面目に、作られているような気もした。
「でさ、この地図だとけっこう近くだろ。これからちょっと一緒に行ってみないか?」
「え? 行くの?」
 今から? 僕も?
 僕は思わず彼を見た。確かに貼り紙にはご丁寧にその場所の地図まで描かれていたけれども。
「当たり前だろ? だから声かけたんじゃねーか。こういう怪しい場所には二人以上で行かないとな。後からネタにするときに証人になってもらわないと」
「ネタって」
 どうやらいわゆる怪しい場所を訪ねた体験談を何かのネタにでもしたいらしい。そういうのどうかと思うんだけどなあ。
「それに」
 彼は再びケータイの画面を見せた。
「え?」
「ほらここ、今日面接って書いてるだろ?」
 ケータイの画面は小さくてよく分からなかったけれども、よく見れば確かにそう書いてあるようだった。
「だから今日行かないとな」
「……」
「何だよ、時間ならあるだろ?」
 僕が返事を渋っていると、とうとうそう言われてしまった。確かに僕は(彼も)暇な学生で、彼の言うとおり、僕にはこの後の予定も特になかった。つまり断る理由もないということだった。


「地図だとこの辺のはずなんだけどなあ」
 結局、僕は彼と一緒にその研究所へ行ってみることになった。けれども、やっぱりというかなんというか、そこは何の変哲もない住宅地で、地図に示されていた場所は空き地だった。空き地を囲むフェンスの一部が門のように途切れている。
「やっぱり誰かの仕込んだイタズラだったんじゃないの?」
 それこそあんたみたいなやつをターゲットにしたようなさあ――とまでは言わなかった。思っただけだ。僕はそっと辺りを見回した。案外仕掛けたやつも近くで僕らを見ているのかもしれない。
「そーだな」
 彼はしばらくぽかんと空き地を見ていたが、やがて、帰ろうか、と言って歩き出した。ああ、と僕も頷いて彼に続いた。どうせこんなことだろうと思ってはいたけれども、歩き出した僕の足取りは心なしか重い。いや歩いたし疲れたんだろう。彼の方は分からない。がっかりしているようにもほっとしているようにも何も考えていないようにも見える。
「なあ」
 そんな彼に僕は尋ねた。
「もし、あそこに本当にその研究所があって、中に入れたとしたら、どうしてた?」
「え?」
 彼は半笑いでちらりと僕を見た。
「そりゃあ中に入ってたさ。ケータイで撮りながらな」
「中に入って? 面接受けてた?」
 彼が返事をするまで少し間があった。
「受けてたかもなあ」
「それじゃあ、もし採用されたら?」
「は?」
「その面接受けて、受かって、採用されたら? どうしてた? そしたらあそこで働いてた?」
 まるで悪の秘密組織のような、あの場所で。
「…………」
 彼はまたちらりと、いやじろりと僕を見た。そしてため息をついた。
「何お前、そんなマジな顔して何言ってんの。もしもも何も実際そんなもんなかったんだからどうでもいいだろ?」
「……そうだな」
 確かにそうだ。僕は何を言ってるんだろう。急に我に返ったような気がした。もしかしたら僕は彼を怒らせてしまったのかもしれない。そして彼はやっぱり何もなくてどこかほっとしていたのかもしれない。何だか怪しげなものにちょっと興味を持っても、実際本当に関わってしまうのは怖かったのかもしれない。
「じゃあ、そう言うお前はどうなんだよ」
「僕は……」
 それじゃあ、僕は?
 僕は振り返った。そこには空き地が、
「……」
 空き地がなかった。
 さっきまで空き地だったはずのところに、大きな建物があった。学校のような病院のような……いや、研究所だ。
「どうした? 伊東」
 彼の声がした。僕は彼を見た。彼は、立ち止まってしまっていた僕を不思議そうに見ていたけれども、それだけだった。その様子はまるで、そこに建物があることに気がついていない――そこにあるはずの建物が見えていないかのようだった。
「いや……」
 そういうことか、と思った。どういうことだ? と疑問に思うまでもなく。
 この建物――この場所は、必要な人にだけしか見えない仕掛けになっているのだ。つまり、必要としているということだ。僕は、この場所を。そして、この場所も、僕を。
「……ちょっと、先行ってて」
 僕はとっさに、そう言って靴に石か何かが入ったようなふりをした。そして、ああなんだと納得した彼が僕から目を離したところで、僕はきびすを返し、歩きだした。門のように途切れたフェンスの向こう側へ。
 そうだ、本当は最初から僕はこの研究所が気になっていたのだ。だから彼と一緒ではなく一人で行きたかったし、実際行ってみれば空き地でがっかりしたし、結局は関わる気のない彼に苛立ったのだ。だって、こんなバカバカしいほど分かりやすい非日常なんて、そう簡単にお目にかかれるものではない。ましてや、それを日常とできる機会など。
 これまでずっと形にできずにもやもやしているばかりだった『僕の考え』が、嘘のようにスムーズに形になっていくのを感じながら、これからは、この場所でなら、どんなことでも正直に考えていいのだと思った。考えることすら許さないなんて言う奴はここにはいないのだ。


 しばらくして、なかなか来ない僕を彼が振り返った時にはもう、僕の姿はどこにもなくなっていることだろう。いや、僕がこのフェンスを越えた時点で、僕は彼や他の人たちの記憶から消えてしまっているのかもしれない。
 そんな嘘みたいなことだって、きっとここならやってのけるのだろう。だってここは、世界の破壊をたくらむ、悪の秘密組織なのだから。



そこから生まれる物語/小説トップ
- ナノ -