そこに意味がある


「時緒、調子はどう?」
 ぼくの作業が一区切りつくのを待っていたかのような(いや実際待っていたのかもしれない)タイミングで、真が声をかけてきた。
「うーん、ぼちぼちかな」
 ぼくはそう答えるとひとつ伸びをした。ぼくの前にはパソコン、手元には紙の束。実習室と呼ばれていた教室の後ろの方で、多分本来は五〜六人の班で使うような大きな机を贅沢に独り占めして、そこにパソコンやら何やらを並べてぼくは作業をしている。その作業というのは、手元の紙に手書きで書かれたまるで暗号のような数字やアルファベットの羅列を目の前のパソコンに打ち込んでいくことだった。いわゆるプログラムなのだと夢積さんは言っていたけれども、ぼくには何が何だかさっぱり分からない。
「そっちは?」
 お返しのようにぼくが尋ねると、真は少し苦笑いして、傍らに積み上げた本のてっぺんをこつんと叩いた。真もまた別の大きな机を一人で使ってそこにたくさんの本を無造作に積み上げている。
「あー、こっちもぼちぼちってとこかな。難しくて頭痛くなりそう。面白いけど」
 さらにその手には読みかけの本があった。その様はまるで学者のようだ。
「面白いんだ」
 すごいなあ。ぼくは素直に感心した。
 科学部でぼくがやっていることと真のやっていることは全く違うことだった。それは、やりたいことがあって科学部に入った真と特に何もなかったぼくとの違いでもあった。真はひたすら本を読んでいる。何でも『まずは今何が分かっていて何が分かっていないのかを把握する』のだという。ぼくも初めは真の方を手伝おうと思って同じように本を読もうとした。けれどもその本のあまりの難しさにぼくはびっくりしてすぐに音を上げてしまったのだった。
「それでしたら、こちらを手伝いませんか?」
 そんなぼくに夢積さんがそう声をかけてくれた。こちら、と夢積さんが言ったのは、夢積さんと桐島さんが中心となって手がけていることで、佐倉さんと立花さんもそっちを手伝っているという。つまり真以外全員だ。というのも、それがかなり大掛かりなことだったからだ。
「簡単に言うと、まずは、ロボットを作ろうとしています」
 と、夢積さんは言った。
「ロボット、ですか?」
 そう聞いてぼくが想像したものは、例えば工場なんかにあるような、金属的で機械的なものだった。けれども、
「これは設計図というよりもまだイメージ図のようなものなのですが」
 そう言って夢積さんが見せてくれた『イメージ』はぼくの想像を超えたものだった。
「イメージというかコンセプトは『天使』です。いわゆる七大天使になぞらえて七体作りたいと考えています」
 と言う夢積さんの言葉通り、そこに描かれていたのは機械というよりは人型の、背中に大きな翼を持った、まさに『天使』だった。まるでSFのようなファンタジーのような、いや、天使だから神話だろうか、そんな途方もない話だ。
「本当にこんなもの作れるんですか?」
 後から思えば失礼な訊き方をしてしまっているけれども、その時はそれが正直な気持ちだったし、夢積さんも特に気にする様子もなくただ、ええ、と頷いた。
「細かいデザインはまだこれからですけど、基本的な構造なんかは少しずつ形になってきているところですよ」
「…………」
 なるほど。科学部にはすごい先生がいてすごいことをしている――以前、真が興奮気味にそう話していたのを思い出した。確かにその通りだ。
「そこで、葉月君にやってもらいたいことなのですが」
「あ、はい」
 そうだった、と改めて思い出して急に不安になった。だって、こんな壮大な話の中で、ぼくにできることなんて本当にあるんだろうか。
「この『天使』を動かすためには、いわゆるプログラムが必要になります。そのプログラムを作るのを葉月君には手伝ってほしいのです」
「えっ」
 ぼくは青くなった。そんな、
「ぼくプログラムとか作ったことないんですけど」
 作るどころか見たこともないのに。
「大丈夫ですよ」
 けれども夢積さんはあっさりとそう言った。
「要はパソコンで文字を入力することさえできればいいのです。プログラムというものもつまりは言葉なのですから、読んで書いていれば自然と覚えてゆくものです」
「言葉……ですか」
 そんなもんなのかな、と思った。夢積さんの話を聞いていると、なんだか、どんな途方もないことも、何でもないことのように思えてくるのだった。


 というわけで、ぼくは夢積さんたちの手伝いをしている。
 実際のところ、プログラムそのものは夢積さんが作っていて、ぼくに任されたのは言ってみればそれをただ写すだけのことだったので、簡単といえば簡単だった。ただ、
「葉月君、こちらもお願いできますか?」
「え? あ、はい」
 教室の前の方からせかせかと夢積さんがやって来て、ぼくのところにまたプログラムの書かれた紙を持ってきた。確かに作業自体は簡単なのかもしれないけれども、この調子で次々と追加されていく上、そもそもぼくも文字を打つのが特別早いというわけでもないため、結果、作業はじわじわと溜まっていってしまっている。これは大変だ。
「せんせーはさ、パソコン苦手なの?」
 そんなぼくらを見ていた真が笑いながら言った。
「作ってる人が自分で打ち込んでいった方が早くない?」
「そうですね」
 夢積さんは真に微笑み返した。
「けれども、結局は紙に手で書いた方が考えがまとまるということもありますし、何より、こうして葉月君にやってもらうということにも大きな意味があるのですよ」
「え? そうなんですか?」
 ぼくは思わず尋ねた。
「ええ」
 けれども夢積さんは頷いただけで、そこにどんな意味があるのかまでは教えてくれなかった。複数の人の目で確認していった方が、例えばミスがあったとしてもすぐに見つけられるとかそういうことだろうか。でももしそうだったとしても、ぼくにそれができるとはちょっと思えないんだけどなあ。
「それでは、よろしくお願いしますね」
 そう言うと、夢積さんはまたせかせかと桐島さんの方へ戻って行った。相変わらず長い前髪で視界は悪そうなのに意外とその動きは早い。ぼくと真はそろってそれを見送り、顔を見合わせた。真はやれやれと言いたげに笑っている。ぼくも似たような気分だ。
「それじゃあ、また頑張ろうか」
「そうだね」
 そしてぼくらはまたそれぞれの作業に戻っていった。


 そういえば、最初に『天使』の話を聞いたときに、
「ところで、これが完成したらどうするんですか?」
 ぼくはそう尋ねてもいた。『まずは』と夢積さんが前置きしていたのが引っ掛かっていたのだ。まずは、ということは次があるということなんだろうか。
「それは」
 そして夢積さんはいつものように微笑んで答えた。
「その時が来れば、分かりますよ」
 そう、確かに言ったのだった。『教えますよ』ではなく『分かりますよ』と。



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