壁打ち


 廊下に出ると、副所長さんが休憩中だった。まあだいたい休憩したくなる時間って決まってくるもので、こんなケースが意外とよくあるってことはもしかしたら副所長さんとはなんていうかリズムとかパターンみたいなものが似ているのかもしれない。
「どうも。お疲れさまです」
 副所長さんがもたれかかっている窓枠の隣の窓枠に俺ももたれかかってポケットから煙草を引っ張り出した。副所長さんの煙草の匂いがする。昔はよく分からなかったけれどもここに来てからいろんな奴のいろんな煙草の煙を吸い始めてその違いがなんとなく分かるようになってきたような気がする。
「あ、すみません。煙行きませんか」
 俺の方が風下だったことに副所長さんも気づいたらしい。
「別にいいですよ。なんだか二本分吸ってるみたいでお得な気分です」
「なるほど、お得ですか」
 副所長さんはまた窓枠にもたれかかって窓の外のどこかを見たままぼーっとし始めた。でもこんな時の副所長さんはたぶんなにも見ていない。
「副所長さん、何か悩んでるでしょう。ていうかあなたもうずっと何か悩んでるでしょう」
 気が付くと俺はそう言っていた。
「え? なんですか、急に」
 副所長さんはちらりとこっちを見て笑った。
「何か言いたいことがあって、でもずっと言えないままでいるんじゃないですか? だからずっといつもいつも辛そうにしてるんじゃないですか?」
 副所長さんは眩しそうに目を細めて窓の外を見ている。
「伊東に言わせると俺はどうやら壁みたいですよ。俺に向かって話していると壁に向かって独り言を言っているような気分になるそうで」
 副所長さんはこっちを見ない。
「言ってしまえばいいじゃないですか。誰かにじゃなくても例えば壁とか穴とかそんなもんに向かってでも言ったらいいじゃないですか」
 副所長さんは目を伏せてしまった。切れ長、てきっとこういう目のことをいうんだろう。もしこうしているうちに突然副所長さんがこの窓枠を乗り越えて空へと跳んでいってしまったらとか一瞬考えてぞわっとしたけれどもそういえばここは一階だった。なんだか勝手に高いビルのまあまあ上の方の階にいるような気になっていた。ところで副所長さんはどうして黙っているんだろう、これじゃあどっちが壁だか分からない。
「……言葉にすると、呪われるんですよ」
 やがて副所長さんはそんなことを言った。
「たとえば、誰かのことを……嫌いだ、と言ってしまったら、その言葉を嘘にしないようにずっと嫌いでいようとしてしまう、そんな気がするんです。もしかしたら、何かのきっかけで関係が改善することもあるかもしれないのに」
「じゃあ、誰かのことを好きだと言ったら、ずっと好きでいられるってことですか」
 するとひどく恐ろしい目つきで睨まれたので、ああやっぱりこの人の悩みってそういうことなんだなあと思った。
「あなたが壁だ、というのもわかるような気がしたのですが……やっぱり違いますね」
「やだなあ、壁だってボールくらいは跳ね返しますよ」
 気が付くと、ろくに吸わなかった煙草の灰が零れ落ちそうになっている。俺はなんだかがっかりしたような気分で煙草を携帯灰皿に突っ込む。
 副所長さん本人は呪われたくないみたいに言っているけれど、俺には、副所長さんはもうとっくに呪われてしまっているようにしか見えなかった。
 自分で自分に呪いをかけて、苦しんでいるようにしか見えなかった。



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