釣りをする川辺さん


「あれ?」
 その日いつものように川辺さんに会いに行くと、いつものベンチに川辺さんはいなかった。川辺さんがいたのはもっと川に近いところだ。
「川辺さん、何してるの?」
「ん? ああ、こんにちは」
「こんにちは。……釣り?」
 川辺さんの手には釣竿、その先の糸は川の中。どう見ても釣りだった。なんていうか、何かをしている川辺さんはちょっと珍しいように思った。いつもはただベンチに座ってぼーっとしているだけだし。
「ああ、勧められてね」
「釣りを? 誰に」
「誰だろう、通りすがりの人に」
「ふーん」
 川辺さんに話しかけてくれるような人が他にもいるんだと思って、そりゃあそうだろうと可笑しくなった。そして同時になぜか複雑な気分だった。なんだろう、ちょっとだけ悔しいようなほっとしたような。
「で? 何か釣れた?」
 尋ねながら、あれ? と思った。その辺を探してみても魚を入れるバケツとかが見当たらない。
「実はね」
 そんなあたしを見て川辺さんはふふ、と笑った。
「ほら」
 川辺さんは釣糸を手繰り寄せた。するとその先には何もついていない。餌どころか釣針も。
「というわけなんだ」
「えー。なにそれ、釣りじゃないじゃない」
「うん、まあそうなんだけど」
 川辺さんは釣糸を川に投げ入れた。おもりと浮きだけはついていたから投げ込んでしまえば普通に釣りをしているように見える。
「これもね、勧められたんだ。ぼんやりするのが目的なら釣れないくらいがちょうどいいだろうって」
「つまり、釣りを勧められたんじゃなくて、ぼーっとしてるのをカモフラージュするために釣りしてるふりをすることを勧められた、てこと?」
「そう」
 なんだそりゃ。勧めるほうも勧めるほうだけどそれを実行する川辺さんも川辺さんだ。でも当の川辺さんはにこにこしている。なんだか楽しそうだ。
「楽しい?」
「楽しい、というより面白い、かな。その考え方がさ。なるほど、近頃はぼんやりするにも体裁を取り繕わないといけないらしいね」
「いや、普通に釣りしたほうが面白いと思うけど」
 でも確かにこっちの方が川辺さんらしいような気がした。
「まあ何にせよ、よかったね」
 あたしも今度やってみようかな、と思った。川辺さんと二人並んで釣れない釣糸をたらして、ただぼーっとするのも悪くないかもしれない。



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