それどころではない


「ねえ、りょーちゃーん」
「はい」
 桂木さんの間延びした声に、俺は作業をしながらとりあえず返事をした。とりあえずでも返事をしておかないと面倒くさいが逆にとりあえずでも返事さえしておけば何とかなるのだ。
「りょーちゃんはさあ、今恋してるー?」
「はっ?」
 けれどもあまりにも意外な言葉に俺は思わず桂木さんを振り返った。桂木さんはだらーんと椅子に腰掛けて天井を見ている。そういえば桂木さんは今朝から何となく元気がないようだった。てっきりただの寝不足だろうと思っていたけれど。
「いえ、してません」
 気を取り直して俺は正直に答えた。実際今はそれどころではない。仕事は意外と忙しいし。
「ああそう……」
 桂木さんは回転椅子でぐるぐる回り始めた。やっぱりなんかちょっとおかしい。いやおかしいのはいつものことだけれども今日はそのおかしさがいつもと違う。
 ひょっとして。
「桂木さん、こ」
 恋してるんですか、と言いかけたところで突然鋭い視線と水鉄砲を向けられた。俺は慌てて両手を上げる。桂木さんの水鉄砲は侮れないのだ。
 俺の様子に桂木さんは水鉄砲を片付けるとまた回り始めた。俺は内心ほっと胸をなでおろす。
「じゃあどうしたんですか」
「……なーんかさあ、甘いもの食べ過ぎたらちょっと気持ち悪くなるじゃない?そんな感じ」
「え?何食べたんですか」
「ねえおばあちゃーん、何かスッキリする方法とか知らなーい?」
「いや俺おばあちゃんじゃないですから」
 桂木さんの笑い声がした。ただその表情はちょうど見えない。
「あの、気持ち悪いんでしたら、とりあえず回るのはやめた方がいいと思いますけど」
「うん」
 桂木さんは俺に背を向けて止まった。そのまま黙っているのを確認して、俺も作業に戻る。
 少しして、また桂木さんが笑う気配がした。
「あー、やっぱりりょーちゃんと喋ってると和むなあ。この微妙にズレてるところがいいよね」
「え、俺ってズレてるんですか?」
 本当は。
 恋をしているかと問われて一瞬だけよぎった姿があった。けれども俺はそれをなかったことにする。だって今はそれどころではないのだ。
 きっと、すべてにカタがつくまでは、俺はそれどころではないのだろう。



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