フラッシュ


「桐島君、寒くありませんか?」
「……所長」
 夕方、研究所の屋上でひとりぼんやりとしているところだった。声を掛けられ振り返ると、なんだか寒そうに背中を丸めた所長の夢積の姿があった。
「いえ、私は大丈夫です。所長こそ」
 人のことなど言えない様子の夢積に桐島は少し笑った。夢積も少し笑うとふと遠くに視線をやった。
「ああ、日が落ちるのもずいぶん早くなりましたね。もう冬なんですね」
「そうですね」
 夢積の視線を追うようにまた屋上からの眺めに視線を移せば、空に薄くかかっていた雲がちょうど晴れて、傾いた日の光が辺りを赤く染めていった。まっすぐ目に飛び込んできた光の眩しさに桐島は目を細め、けれども逸らすことはせずに呟いた。
「そういえば……。所長、あなたと初めて出会ったのも、こんな夕暮れ時でしたね」
 もう十年以上も前のことだった。自分の世界を大きく変えた、まさにあれが全ての始まりだった。
「不思議なものです。もう、あれが春だったのか夏だったのか秋だったのか冬だったのかも判然としないのに、こんな赤い夕暮れの光を目にするたびに、あの時のことを思い出すんです」
 自分の中で渦巻いていた苛立ちが嘘のように静まっていった、あの時。この人なら、と思ったのだった。きっとこの人なら、自分にはとても出来ないようなことさえも、軽々とやってのけてくれる。自分が知らぬ間に抱いていた望みさえ、叶えてくれる。
「ねえ所長、所長は覚えていますか――?」
 だが、振り返ればすでにそこに夢積の姿はなかった。するといったいいつから自分は独り言を言っていたのだろうと思い桐島は苦笑いする。
 一瞬、彼という存在そのものが夢だったような気がした。
 いつの間にか日の光もまた雲に遮られてしまっていた。最近日が落ちるのが早くなった。落ちてゆくその様すら、目に見えるようだった。



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