お言葉に甘えて(2/2)
 そして今度こそ勢いをつけて立ち上がると、わざとらしく見えていないかどうか若干不安に思いながら、寒いなとか言って後ろの壁に掛けてあった制服の上着を羽織り、鞄を持とうとしてやっぱりやめて携帯と財布だけを取り出してポケットに入れた。おかげでポケットはパンパンになってしまったけれどまあ仕方がない。そしてまた監視カメラをちらりと見るとあたしは小走りにドアに駆け寄ってそっと開けた。
 まるで放ったらかしにされているようなこの状況に、実は意外と町中なのかもしれないこの場所。だったらひょっとして逃げ出せるんじゃないだろうか、と思ったのだった。そう、確かにあたしは誘拐されたのかもしれない。けれども、大人しくしていると思ったら大間違いなのだ。
 まずはドアから顔だけ出して外の様子をうかがってみた。そこには廊下が左右にまっすぐ延びていた。人の気配はなくしーんと静まりかえっている。そろりと廊下に出てドアを閉めた。しばらくその場でじっと耳を澄ませてみたけれども特に変わったこと――例えば警報が鳴り出すとか誰かが駆けつけてくるとかいったことはないようだ。
 改めてもう一度左右を見てみた。まっすぐ延びた廊下のどちらの突き当たりにも両開きのドアのようなものが見えて、そのすぐ手前には曲がり角のようなものがあるようだった。もしかしたら一階へ降りる階段があるのかもしれない。ここから廊下の突き当たりまでの距離はどちらへ行っても同じくらいに見えた。どっちに行こうかな、と考えて、そういえばさっき倉沢さんがあっちの――ここから見て左の方の――部屋にいるとか言っていたのを思い出した。
 そこでとりあえず右に行ってみることにした。さっきまでいた部屋からもちょっと見えたとおり廊下にも窓があってさらにその外は山だった。意外とすぐそばまで木の生い茂った斜面が迫ってきている。もしさっきの部屋の窓からの景色がこんな感じだったらまさに山奥の怪しい場所だと思ったかもしれない。
 廊下の先の曲がり角のところで立ち止まると、あたしは壁を背にそこからそっと顔を出して先の様子をうかがってみた。思った通り階段が上方向と下方向に延びている。さっそく降りてみようと踏み出したところで突然、たんたんたんたん、と上から降りてくる足音が聞こえてきた。
「おっと」
 あたしは慌てて隠れなおした。壁にへばりついてじっと耳をすます。足音はこちらに向かってくる様子はなく、やがて下の方へと遠ざかっていった。
 やれやれとあたしは一つ溜め息をついた。そしてふと下を向いた拍子にちょうど手元にドアノブがあることに気づいた。
 ……ドア?
 振り返ると、壁だと思っていたそこには確かにドアがあった。変だな。さっきまでは壁だったと思うのに。気づかなかっただけかな。
 するといきなりそのドアがガチャリと開いた。
「うおおう」
 あたしは思わず後ろに飛び退いた。もちろん別に自動ドアだとかいうわけではなくて、向こう側からそのドアを開けた人がいたのだ。
「あら」
 現れたのは女の人だった。銀色の長くうねる髪がまず目を引く。それも白髪などとは違う、どこか金属的な光沢のある銀色だ。着ているのはシンプルな白いワンピースで、ふとそれになんだか見覚えがあるような気がして首をかしげた。なんだっけ。
「ふふふ」
 女の人はあたしの様子が可笑しかったのか目を細めて笑った。その目は透明感のある綺麗な紫色だった。
「先ほどは、どうも」
「え?」
 あっ。
 その時突然分かってしまった。この人が誰なのか――この人にいつどこで会ったのか。どうして分かったんだろう、あの時とは見た目は全然違うといってもいいくらいなのに。
 この人、あの時バス停にいた、あの謎のセレブだ。



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