そして。
「カイ!」
 その日も、図書館に行くとユマが待ち構えていたように俺に駆け寄ってきた。相変わらず、いやいつにもまして上機嫌な様子だ。そういえば、ユマはいつも俺たちより先に図書館に来ていて、帰る時には図書館を出たところで俺たちと別れる――つまり、ユマとは図書館でしか顔を合わせたことがない、なんてことを何故か今になって思った。
「ねえねえ、ちょっといいかな?」
「なんだよ」
「見せたいものがあるんだ」
 早く早く、とユマは俺の手を引いて駆け出した。向かったのは図書館の裏手、ちょっとした広場というか庭というか空き地みたいになっている場所だ。
「ほら!」
 そして、ユマの指さす先を見れば、
「なんだ、これ……」
 数歩先で地面が裂けて、切り立つ崖のようになったその向こうから闇を覗かせていたのだ。
「なにって、世界の果てだよ。前にも話したじゃないか」
 何を当然のことをとばかりにユマは言った。けれど。
「どうして……」
「どうして?」
 呆然と呟く俺に、弾む声でユマが答える。
「どうして世界の果てがここに現れたのか? それはね、強く望んだからだよ。言わなかった? 世界の果ては、別の世界への入り口は、それを強く望む者の前に姿を現すんだ」
「……」
 そんな。
 俺は言葉を失った。確かに、世界の果ての話は魅力的だった。憧れ、もあったかもしれない。けれども、そんな気持ちも、逆にそんなことはありえないと思っていたからこそのものであって、こんな、それが本当に自分の目の前の現実となって現れるなんて、考えもしなかったのだ。
 それとも、
(この世界に、何か不満でもあるのか?)
 ヤトの言葉を思い出した。その時はそんなわけがないとむしろ反発するような思いだったけれど、本当は、自分でも気が付かないような心のどこかで、思っていたということなのだろうか。
 この世界から逃げ出したいと。
「だからほら、行こうよ」
 ユマが笑顔で俺に手を差し伸べた。
「行くって……どこへ」
「決まってるじゃないか、この世界の果てから飛び下りて、別の世界へ行くんだよ」
「別の世界へ……?」
 俺はあらためて、世界の果てだとユマが言う、その向こうを覗き込んだ。けれどもそれは、イメージしていたものとは大きくかけ離れたものだった。見えるのは、ただどこまでも深く底の知れない闇ばかりだった。よく見ればちかちかと何かが光っているようだったけれども、そこには夜空のようなきらめきはなく、それはこちらをうかがう獣の目のような、恐ろしくて不気味なものでしかなかったのだった。
「どうしたの? ほら、早く」
 ユマはいつもと同じように笑っている。けれども、現実にこの異常を前にして平気で笑っているほうがおかしいと思い、そう思うと急にユマの笑顔も不気味なものに見えてきた。ユマってこんなやつだったか? これはユマによく似た別の何かなんじゃないのか?
「何してるんだ?」
「ヤト」
 そこにひょっこりとヤトが姿を現した。俺は慌ててこの異常を伝えようとする。
「ヤト、大変だ、ユマが」
「ユマ?」
 ところが、ヤトから出てきたのは思いもよらない言葉だった。
「なんだ? それは」
「……え?」
 何言ってんだよ、ユマだよ、いつも一緒に図書館でつるんでた、友達だろ?
 俺はそう反論しようとして、けれどもなぜかできなかった。かわりに、
「じゃあ、あれは? 世界の果てだって、ユマが……」
 俺は裂けた地面を指さした。するとヤトは、俺の指さした方をちらりと見てため息をついた。
「カイ、お前に何が見えているのかは知らないが、俺にはずっと何のことだか分からない。そのユマとかいうのも、世界の果てとやらも。俺の前には、お前と、あとはいつもと変わらない図書館の裏庭の風景があるだけだ」
 そういえば。突然気が付いた。ユマは俺にはいつもうるさいくらいに話しかけてくるけれども、ユマとヤトが直接言葉を交わしているのを俺は見たことがない。
「ユマ……」
 ユマを見るとユマはただ黙ってヤトをにらみつけている。その怒りと憎しみに満ちたまなざしは、とても友達に向けられるものじゃない。
「まったく」
 ヤトは俺だけを見て言った。
「少し前から様子がおかしいと思っていたら、そういうことか。お前は、見えない何かに惑わされているんだ」
「見えない、何か……?」
 ユマが? 何かがユマの振りをしているんじゃなくて、ユマ自身が? 最初から?
「カイ」
 ヤトは本当に世界の果てなど見えていない様子で、平然と俺に近づいてくる。
「お前はきっと疲れているんだ」
 その手が、ふと俺の方に伸びてきて。
「え……?」
 急に目の前が暗くなった。
 ……ヤト?
「少し、休んだほうがいい」
 そして静かな暗がりの中で、ただ、ヤトの声だけが優しく響いた。



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