秋の空気


 彼女は窓をがらりと開けて、そこから少し身を乗り出すようにしていた。
 風があって、その髪をなびかせていた。
「だいぶ涼しくなったね」
 俺は彼女に声をかけた。いつものように。
「……そうね」
 彼女は俺の方を見て、笑顔を見せた。苦笑いに見えた。
「ああごめん、邪魔したかな」
「別にいいわよ」
 こちらに向き直って、今度は窓枠に腰掛けるようにした。
「だいたい、本当に邪魔をしたくないと思っているのなら、まず声なんかかけないわよね」
「ひどいことを言うね。俺がもう少し弱かったら、ひどく傷ついていたところだ」
「傷ついた?」
「いいや?」
 俺もただ笑顔を見せた。
 また風が吹き込んできて、髪がなびいた。彼女はそれを片手で押さえて、窓枠に寄り掛かったまま、首をひねって外を見た。
「ああ、秋の空気ね」
 ひんやりとした空気の中で彼女が言った。
「どうしてかしら、例えば同じ温度なら春にだってありうるはずなのに、どうしてこの時季のこの空気の中でだけ、こんな気分になるのかしら」
「どうしたの?」
 俺は尋ねた。彼女の言葉には何か、苛立ちというか何かへのいまいましさのようなものが含まれているような気がした。
「ああ、たいしたことじゃないのよ」
 彼女は溜め息混じりに答えた。
「ただ、そうね、どう言ったらいいのかしら。たとえば普段は全く思い出しもしないのに、ある時季のその空気を感じるたびに思い出してしまうことってない?たとえば学生時代のこと。たとえば昔の恋」
「昔の恋?」
「そう。たとえば、昔とても好きだった人と最初に出会ったのが、いろんな話をしたのが、その人を好きだと気付いたのが、ちょうどこんな季節のこんな空気の中だったりすると」
 彼女はずっと俺に横顔を見せたまま、遠くを見ていた。
「ねえ、さっきからたとえばたとえばって言ってるけど、それって」
 彼女はいったい何を見ていたんだろう。
「本当に、『たとえば』の話?」
 俺はその横顔に言った。すると彼女はこちらを見て、ふふふと声を出して笑った。
「さあ、どうかしら」
 それは夏から秋への変わり目のころだった。
 風があって、空気はひんやりとしていた。俺もまた、この時季のこの空気の中に立つたびに、今日のことを思い出すのだろうかと思った。



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