うごめく


 彼女はいつものようにお気に入りの窓際でぼんやりとしているようだった。
 だが近付いてみると、ちょっといつもとは様子が違うようだった。確かにいつものようにぼんやりと窓の外を見ている、けれども。その表情はどことなくいつもと違って見えた。
 そんなふうに思うのは俺だけだろうか?
「どうした?」
 俺もいつものように彼女に近付くと、そんなふうに声をかけた。えっ、と彼女は振り向き、目をぱちぱちさせた。
「……ああ」
 彼女は俺を見て、なんだあんたか、という顔をした。悪かったな。
「どうした、って……なんで」
「なんかいつもと様子が違って見えたから」
 俺がそう言うと、彼女は苦笑いした。よく分かるなあ、と。
「なんかね、ざわざわするの」
 彼女はまた窓の外に視線を移した。
「ざわざわ?」
 俺もつられて窓の外を見た。別にいつもと変わらない景色があるように見える。
「心がね、なんかざわざわするの。春かなあ。嫌だなあ」
 春か。そういえば、最近少し暖かくなってきたような気がする。けど、
「え、なんで。春になったら暖かくなっていいじゃん。毎日寒い寒い言ってたくせに何が嫌なの」
「…………」
 彼女は溜め息をついた。そして黙り込んだ。
 外はよく晴れていて、日の当たる窓際はとても暖かかった。ああ本当に、もう、春だ。
「ねえ」
 しばらくして、やっと彼女が口を開いた。
「え?」
「うごめく、って漢字でどう書くか知ってる?」
「うごめく?」
 ところがいきなり話が飛んでいて俺は混乱した。
「え、なに? 知らない」
「春の下に虫、虫」
「は?」
「春の下に、こう、虫、虫、て書いて、蠢く」
 彼女は空中に指でそう書きながら説明した。へえ。そう書くのか。
「で、それが何」
 俺はさっき自分のした質問が宙ぶらりんになっているのが気になっていた。彼女は寒がりで、すでに秋の終わりごろから、早く春が来ないかな、などと言っていたのに。
「なんかさあ、いかにも、うごめく、って感じだよね。春になって、こう、ざわざわっと虫が出てくるみたいな」
「なに、春になると虫が出てくるから嫌なの?」
 彼女はまた溜め息をついた。
「ちがうわよ」
 一瞬、ためらうように口をつぐんで、
「……ざわざわするのが、嫌なの」
 ざわざわする。
 そうか。分かったような気がした。
 きっと彼女の心の中でも、何かがうごめいているんだ。春が来て、虫が出てくるように。ざわざわと、ざわざわと。
 何が?
 不意に、ざわざわと、俺の中でも何かがうごめいた。
 何がうごめいているの?
 彼女にそう訊こうとした。だが出来なかった。
 彼女はいつものようにお気に入りの窓際でぼんやりとしているようだった。
 俺もいつものように彼女と何でもない話をしているようだった。
 だがその心の中では、ざわざわと、何かが。
 蠢いていた。



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