缶コーヒー


 あまくてやさしくてあたたかいものが足りないの。
「え?何それ」
 どうしたの元気ないね、と僕が彼女に声をかけたら、返ってきた言葉がそれだった。
 終業時間後のロビーは残業組の休憩所になっていた。自販機の前、備え付けられたテーブルセットにぼんやりと座っている彼女を見つけて、僕はさりげなさを装って彼女の向かいに腰掛けたのだった。
 それにしても、彼女の言葉はまるでちょっとしたなぞなぞだった。あまくてやさしくてあたたかいもの。さて何でしょう。
「とりあえず僕だったらここにいるけど」
「は?何わけわかんないこと言ってんの?」
 彼女は不機嫌な様子を隠しもしないで言った。僕はがっかりした。どうやら僕はその『あまくてやさしくてあたたかいもの』ではないらしい。
「あのさ」
 彼女は頬杖をついて目を閉じたまま、溜め息とともに言った。
「今ちょっと私、心がトゲトゲしてるから。離れてた方がいいよ。無駄に傷つきたくないでしょう?」
 僕は黙って彼女を見つめた。確かにその眉間にはしわが寄っているし、その身を包む空気も重く沈んでいるようだった。けれども、たとえささくれ立っていようとも、君の心に触れて受け止めることができるなら、そしてもし少しでも癒すことができるなら、それで傷ついたとしてもむしろ本望な気がするんだけどなあ。
 それとも遠回しにあっちへ行けと言われているのだろうか。それは少し悲しかった。
 ロビーは夕暮れの赤っぽい光さえも消えかけていて、暗くなりかけた中で影のような彼女の姿はさらに物悲しかった。
 と、突然、黙り込む僕らの間に割って入る音があった。
 かこん、かこん。
「ご両人、お疲れみたいだねえ」
 その音は缶コーヒーをテーブルに置いた音だった。そして缶コーヒーとともに現れて僕らに声をかけてきたのは。
「先輩。お疲れさまです」
「おう、お疲れ」
「……お疲れさまです」
 彼女も顔を上げて、驚いた様子で先輩を見ていた。
「よかったらどうぞ、コーヒーでも」
「ありがとうございます」
 彼女は缶コーヒーを一つ取り、両手で包み込むように持った。その気配が次第にやわらかいものになっていくのが分かる。なんてことだろう。ついさっきまでとは大違いだ。
 僕は二人から目を逸らしてテーブルの上の缶コーヒーを見た。
「……ああ、なんだ、そうか」
 思わず僕は声に出していた。あまくてやさしくてあたたかいもの。そのなぞなぞの答えが分かったような気がした。
「僕、もう戻りますね」
 僕は立ち上がって缶コーヒーを手に取った。それは確かに暖かかった。
「これ、ありがとうございます」
 けれども今の僕には、それはたぶんちょっと苦い。



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