川辺さんとバレンタイン


 あ。いた。
 その日もやっぱり川辺さんはいつもの場所のいつものベンチに腰掛けていた。
「川辺さん」
 あたしが声をかけるとこちらを見た川辺さんの顔がすこしほころんだ。
「ああ、きみか」
「そっち座ってもいい?」
「どうぞ」
 あたしは川辺さんの隣に腰を下ろした。川辺さんは相変わらずぼんやりと目の前の川を眺めている。
「あ、そうだ。川辺さんにこれあげる」
 あたしはカバンからごそごそと包みを取り出した。
「ん?」
 川辺さんは首をかしげてあたしの差し出したそれを見た。
「何?」
「チョコ」
「チョコ?ああそうか、バレンタインか」
 けれども川辺さんはチョコレートに手を伸ばさないまま今度はあたしを見た。
「でもなんで?」
「いつもお世話になってるから」
「世話なんかしたかなあ」
 川辺さんはまた首をかしげている。あたしはにやりと笑った。
「なんて。実は本命だとかいったらどうする?」
「だったらこれは受け取れないな」
 川辺さんは苦笑いして即答した。あたしまで苦笑いしてしまう。
「うわ。正直な人。でも安心して、本命じゃないから。……そのチョコ自体は本命のために用意したものなんだけどね」
「なんだ、渡せなかったのか」
「うん」
 あたしはうつむいた。
 前から気になっている彼に渡そうと思って買ったチョコレート。なのに結局渡せないままこうして持って帰っている。普段は普通に話せるのに、こうなるとどうして話しかけることすら出来なくなってしまうのだろう。
「だから、持って帰ってもしょうがないし、川辺さんにあげるよ。生チョコじゃないから日持ちもするだろうし、少しづつ食べれば何日かは食いつなげるよ」
 あたしは川辺さんにチョコを押しつけた。川辺さんは困ったような顔で、
「おれは別に食うに困っているわけじゃないんだがな」
 あたしはちょっと笑うと勢いをつけて立ち上がった。
「じゃ、あたし帰るね」
「ああ、待って」
「ん?」
 呼び止められて振りかえる。すると川辺さんに今渡したチョコをつきつけられてしまった。
「やっぱりこれは受け取れない」
「……ホームレス扱いしたから怒ってるの?」
「そうじゃないさ。やっぱりこれは本当に渡したい相手に渡した方がいいってことだよ」
 ほら、と川辺さんはあたしにチョコを押し返した。あたしは反射的にそれを受け取ってしまう。
「でももうこんな時間だし」
 つぶやくと川辺さんはこともなげに、
「今日渡せなくても明日渡せばいいさ。そもそも、気持ちを伝えるのに決められた日なんてないんだから」
 あたしは手の中のチョコに視線を落とした。
「だいじょうぶ。変に構えないで、今おれにやったみたいに気軽にやればいい」
「……うん」
 あたしはうなずいた。
「ありがとう」
 あたしは川辺さんを見た。川辺さんは優しく笑っていた。



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