川辺さん


 あたしの家の近所には川が流れていて、その河川敷はちょっとした遊歩道みたいになっていた。
 学校帰り、あたしは時々そこを通って帰っていた。近道ではなく逆に遠回りなのだが、ちょっと散歩したい気分の時にはちょうどいいのだ。
 その日もあたしはぶらぶらと河川敷の遊歩道を歩いていた。そしてあたしはその途中で、ぽつんと座っている男の人を見つけた。遊歩道の所々にはベンチも設置されていて、彼はその一つに腰掛けていたのだ。
 あたしは立ち止まった。彼はただ前を向いていた。膝ていうか太もものあたりに肘をついて背中を丸めている。川でも眺めているんだろうか。あたしも川を見てみたが、特に面白いものでもなかった。夕方の光が川面に反射して金色にきらめいていて、綺麗だと言われれば綺麗かな、程度だ。
 あたしはしばらく彼を眺めていた。彼はこちらを見るでもなく、前を向いたまま微動だにしない。
「何してるの」
 数分は経っただろうか、というころになってあたしはやっと彼に声をかけた。そして彼もようやくこちらを振り向いた。
「川なんか見てて楽しい?」
 あたしがさらに言うと彼は笑顔を見せた。
「そっちこそ。おれのこと見てて楽しい?」
 どうやらあたしがいることには気が付いていたらしい。だったら少しはこっちを見るとかすればいいのに。
「変な人」
 あたしは思わずそう呟いてしまった。しまったと思ったけれども彼は気を悪くしたふうでもなくにこにこしている。聞こえなかったのだろうと思って少しほっとした。
「おれは別に川を見ていたわけじゃないよ」
 彼はまた顔を前に向けた。あたしは少し歩いて彼の座るベンチの斜め前あたりに立った。
「じゃあ何見てたの?」
 あたしは彼の視線を追ってみた。やっぱり川しか見えない。
「何も」
「何も?」
 あたしは彼を見た。言われてよく見てみれば確かに目は開いていても焦点は合っていないような気もする。
「じゃあ、何か考えごとしてたの?」
 それなら分かる気がした。考えごとをしていると辺りのことなど目に入らないみたいなことならあたしも覚えがある。
「いや」
 ところが彼はやっぱり首を振った。
「ただ、ぼうっとしてた。なんにも考えずに」
「そんなことできるの?」
 何も考えないとか。あたしもよくぼんやりしてるねと言われたりするけれども、実際はたえず何かしら思い巡らしているような気がする。
「ああ。暇をつぶすには一番の方法だからね」
 彼はゆっくりとうなずいた。暇って。
「暇なの?」
「そうだな。時間がありすぎて、時々どうしたらいいか分からなくなるんだ」
「ふーん……」
 それってどんだけ暇なんだ。
 そう思いながらあたしはあらためて彼を見た。薄い色のカッターシャツに濃い色のズボン、なぜか胸ポケットには眼鏡。ネクタイはつけてないけれども印象としては仕事帰りのサラリーマンといったふうだ。
 いや、ひょっとするとこれはいわゆるあれだろうか。突然のリストラにあってしまったけれどもそれを家族に言えないままいつもの時間に家を出ていつもの時間まで暇をつぶすといったような。見た感じまだ若そうのに大変だなあ。
「……早く次の仕事探せばいいのに」
 また思わずあたしが呟くと、え?と彼がこちらを見た。しまった。今度は聞こえてしまったようだ。
「いや、だって……」
 あたしはごまかすこともできず、失礼かなと思いつつもさっき思ってたようなことを正直に言ってみた。彼はきょとんとしていたが、やがて大笑いしはじめた。
「なるほど!おれはそんなふうに見えるわけか」
「ごめんなさい。違うわよね?」
「いや、そういうことにしておこうか」
 彼はなんだか楽しそうにそう言った。いや、そういうことにしておこうって……。いいのかそれで。
「帰らないのかい?」
 ふと彼がこちらを見て言った。
「もう日も暮れるよ。暗くなる前に帰らないと」
「そっちこそ帰らないの?」
 どことなく子供扱いするような彼の口調に苦笑いしながらあたしも言い返した。
「こんなところでぼんやりしてないでさ」
 すると彼は少し悲しげに笑った。
「おれはまだ帰らないよ。帰れないんだ」
「どうして」
「家出中だから」
「家出?」
「……なんてね」
「どっちよ」
 本当なのか冗談なのか。だが彼はそれには答えずただ笑顔だった。
「……じゃあね」
 確かに気が付けば思った以上に辺りは暗くなりかけている。あたしは帰ることにした。
「あ。そうだ」
 けれども彼の前を通り過ぎたところであたしは振り向いた。
「ねえ」
「ん?」
 うつむいていた彼がこちらに顔を向けた。
「明日もここにいる?」
「ああ、たぶんね」
「名前なんていうの?」
「名前?教えない」
「なんで、教えてよ。なんて呼べばいいか分からないじゃない」
「てきとうに呼んでくれて構わないよ」
「うーん」
 あたしはしばらく考え込んだ。
「じゃあ、川辺さん」
「川辺さん?」
 彼がきょとんと首をかしげた。あたしは少し笑って、
「うん。川辺にいるから川辺さん」
「なるほど」
 彼もまた少し笑って川を見た。
「じゃあまたね、川辺さん」
 あたしは川辺さんに手を振った。川辺さんもこちらを見て、じゃあねと手を振り返してくれた。
 きびすを返して歩き出しながら、明日もここを通って帰ろうと思っていた。逆に遠回りになってしまうけれども、それはそれでいいんじゃないかと思った。



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