些細な出来事


 窓の外の空は、すでに日暮れて紺色になっていた。
 校舎別館最上階の端、今は使われていない特別教室。出入り口の戸の上には「実習室」という古ぼけた表示が残っているが何の実習をする場所だったのかは分からない。通常の教室の倍ほどの広さの室内には、五、六人が囲める大きめの机あるいは作業台が八台と、それを囲むように椅子が整然と並んでいる。窓際には背の低いロッカーがあり、その上に腰掛ければ窓から外を眺めるのにちょうどよかった。
 この教室は普段の授業ではもう使われなくなっていたが、この学校の部活動の一つである科学部の活動場所として使われていた。かつてはそれなりに部員がいた時期もあったが、今では弱小も弱小、ちょうど最近三年生が引退したこともあって部員はたった二人だった。
 その部員の一人の男子生徒が、窓際のロッカーの上に腰掛けてぼんやり外を眺めていた。もう一人の部員の姿はない。ここにいる彼もいないもう一人も、以前からもうまともに科学部としての活動などしてはいなかった。
 まともに活動してはいなかったが、この場所を彼は気に入っていた。忘れられた特別教室にまず人はやってこないし、最上階にあるこの場所からの眺めもそれなりによかった。高い建物が近くにあまりないせいか空が広く見える。それがゆっくりと暮れてゆく様は、見ていて飽きなかった。
 がらりと戸の開く音に、もう一人の部員が来たのだろうと彼はそちらを振り返った。他の可能性などまず考えられなかった。だがそこにいた人物は彼の確信に近い予想を裏切っていた。それは彼のまったく知らない人影だったのだ。
「こんにちは」
 人影は彼を見て挨拶した。彼は一瞬ぽかんとしたあと座り直すと黙って少し頭を下げた。
「ええと……」
 人影はすぐそばの壁を振り向いて手探りで教室の電気のスイッチを探し当てるとぱちりと入れた。薄暗かった教室が急に明るくなって、彼は思わず顔をしかめた。
「ここ、科学部ですよね」
 人影は彼を振り向いた。辺りが明るくなって姿がはっきり見えても、やはりそこにいたのは彼の知らない人物だった。声の感じや服装などからそれは男性のようだった。小柄で自分よりも背は低いように見える。伸ばし気味の髪を後ろでは一つに結んでいたが前髪は顔を半分くらい隠していて鬱陶しそうだった。この学校の制服姿ではない。生徒ではないのかもしれないがかといって教職員にも見えなかった。一言で言えば部外者。悪く言えば不審者だ。
「あの……」
 彼は恐る恐る声をかけた。どちらさまですか、と言おうとしたところで人影はそれを察したように微笑んだ。
「ああ、申し遅れました。わたしは藤といいます。この科学部の特別顧問として今日からこちらでお世話になります」
「特別顧問?」
「ええ。まあ、顧問と言っても教師ではないのですが……、そうですね、外部から招かれている講師という言い方が近いでしょうか」
「はあ……」
 良く分からないが、要するに新しく来た顧問の先生のようだ。少なくとも不審者ではないらしい。それにしても、こんな今にもつぶれそうな部活に新しく特別顧問だなんて。
「わたしには、やりたいことがあるのです」
 藤、と名乗ったその特別顧問とやらは、辺りをぐるりと見回しながらのんびりと教室の中に入ってきた。
「そのために、ちょっとこの場所をお借りしたいと思いまして」
「はあ……そうですか」
 そう言われても。何と返事したらいいのか考えあぐねていると、藤はふと彼を見てまた微笑んだ。
「どうでもよさそうにしてますね」
「え、いや、そんな」
「そうですか?自分以外はどうでもいい、そんなふうに見えますが」
「…………」
 確かに言われたとおりだった。彼の世界は彼自身とその他大勢のどうでもいい人間たちで構成されていて、どうでもいい人間がどこで何をしてどうなろうと、それこそどうでもよかった。
 だがそれは、人間誰しもそうなのではないだろうか。彼はそう思ったが、それを口に出したところでどうなるものでもないとただ黙っていた。
「すみません、変な話になりましたね」
 黙りこくってしまった彼に、藤は少し困ったようにそう言って話を変えた。
「ええと……あなたはここの部員さんですか?」
「はい」
「何年生ですか?お名前を訊いてよろしいですか?」
「二年の、佐倉です」
「佐倉君。ひょっとして、今ここの部員はあなた一人だけなんですか?」
「いえ……」
 その時ふいに、教室の、藤が入ってきたのとは反対側の戸ががらりと開く音がした。
「ごめんね佐倉、遅くなっちゃって」
 二人はそろって声のした方を振り向いた。声とともに入ってきたのは一人の女子生徒だった。この科学部のもう一人の部員だ。彼女も藤に気付いて不思議そうな顔をした。机の間を縫って佐倉のそばまで来ると少しそのかげに隠れるようにして佐倉の制服の袖を引いた。
「ねえ佐倉、誰?この人」
「ああ、なんか新しい顧問の先生だって」
「顧問の先生?」
 どことなくおびえているようにも見える彼女に、藤はまたにこりと微笑んだ。
「どうもはじめまして。今日からここの特別顧問としてお世話になります、藤といいます」
「あ、どうも……」
 彼女はぎこちなく頭を下げた。二人が言葉を交わすのを聞き流しながら、佐倉はまた窓の外へと視線をやった。

 振り返ってみれば、まさにここから全てが始まったと言っても過言ではなかった。だが、彼にとってはこの出来事もほんの些細な出来事でしかなかった。藤との出会いも、彼にとっては単にまたどうでもいい人間が一人増えただけのことに過ぎなかった。
 彼の世界が大きく変わるのは、まだ、もう少しだけ先のことだ。



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