灰が落ちる


 そろそろ灰が落ちるんじゃないかなあ。
 ちらちらと副所長の様子を伺いながら僕はそんなことを考えていた。
 副所長は先ほどから机に肘をついた片手にタバコを持ったまま微動だにしない。一見机の上の書類に視線をやっているようでよく見るとその目は焦点が合っていない。
 もしこのままそのタバコの灰が落ちて書類を焦がしても、彼はたぶん気が付かないんじゃないかなあ。それはそれでちょっと面白そうだった。だから僕も特に声をかけることはなく、ただちらちらと副所長を気にしている。
「副所長さん、灰が落ちますよ」
 あ、と僕は思わず声を出した。副所長の姿を遮るように中嶋さんが僕に後ろ姿を向けていた。たぶんその手には灰皿がある。研究室に備え付けのやつかもしれないし、自分の携帯灰皿かもしれない。
「ああ、すみません」
 さすがに副所長も我に返ったのか、そんなふうにこたえる声が聞こえた。なんだつまんないなあ、と僕はちょっと残念に思いながらまた自分の仕事に戻った。
「どうしたんですか、副所長さん」
「いや、べつに……」
「ひょっとして恋煩いでも?」
 冗談のつもりなのか中嶋さんがそんなふうに言うのが聞こえた。天然なのかわざとなのかは知らないけれど、なんて今更な質問をしているんだろうと、僕まで思わず苦笑いしてしまった。



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