二次会


「透、ちょっといいか?」
「え、なに?」
 夜中、兄貴に呼ばれてリビングに行くと、テーブルの上に日本酒と二人分のグラスとおつまみまで並べられていた。
「あれ?どうしたの?」
 ぼくが驚いて目を丸くすると兄貴は笑って、
「二次会ってとこかな、大人二人で」
「涼にバレたら怒られそうだね」
 ぼくも笑顔になりながら兄貴と向かい合わせに腰を下ろした。今日はぼくの就職祝いと涼の入学祝いを兼ねて夜はちょっとしたパーティだった。二次会、と兄貴が言ったのはそういうことだ。
「ほら」
 兄貴が日本酒の瓶を差し出してくれる。控え目な小振りの瓶だ。さっきまで冷蔵庫に入っていたみたいでよく冷えていた。
 乾杯、とぼくらはグラスを合わせた。
「うわ、美味しいねえ」
「そうだろう。この日のために選りすぐって用意しておいたんだ、その辺にあるやつとは違うぞ?」
「そうなんだ」
 確かにふだん飲み会で出て来るようなものとは全然違っていた。だいいち飲み会では熱燗ばかりだし。驚くぼくを兄貴は嬉しそうに見ている。なんだかちょっと照れくさい。
「なんかこうやって一緒に飲むのって初めてじゃない?」
「そうだな。おまえに飲ますといつも騒がしくなるから」
「ひどいなあ」
 確かにぼくが飲み会から帰ってくればいつも大騒ぎになるらしい。強くないくせに酒好きなせいで飲み過ぎてしまうからだ。
「今日はいいの?」
「まあ、お祝いだからな。ほら」
「あ、ありがとう」
 まだグラスにはけっこう残っているのにもうまた兄貴が瓶を差し出してくれる。お祝いだからっていきなりちょっと飲ませすぎじゃない?飲むけど。
「兄貴も飲みなよー」
「うん」
 なんだか不思議な感じがした。なんていうか、
「こんなふうに兄貴と飲める日がくるなんてねー」
 兄貴のグラスについでやりながらぼくはしみじみと呟いた。
「これからはちょくちょく飲もうよ、少しなら騒ぎにならないからさ」
「これから?」
「うん。そのうち涼も加わったりしてさ、いやそれはまだまだ先の話だけど」
 何せまだ涼は中学生になったばかりだ。ぼくも気が早いなあと自分でもちょっと笑ってしまう。
「透」
 そんなふうにぼくがへらへらしていると、ぽつりと兄貴がぼくを呼んだ。
「なに?」
 けれども兄貴はそれきり黙り込んでしまった。テーブルの上に視線を落としてぼくを見ないままだ。
「どうしたの?」
「……いや」
 だが突然、うつむいた兄貴の頬に涙がこぼれ落ちて、ぼくは目を見開いた。
「どうしたの、兄貴どうしたの?」
 おろおろするばかりのぼくに、兄貴は片手で目許を覆って苦笑いしてだいじょうぶだよと首を振る。
「なんでもない。ただ、おまえも大人になったなあと思ったらちょっと泣けてきて」
「なんだよそれー」
 まだ少し声はふるえていたけれどもいつもとほぼ変わらない兄貴の様子に、ぼくはふくれてみせながらもほっと胸をなで下ろした。もう、何事かと思うじゃないか。
「やだなあもう、兄貴って泣き上戸だったんだね」
「そうかもな」
 目許を拭って兄貴は顔を上げた。困ったような泣き笑いの表情にぼくはまた笑った。

 どうしてあの時ぼくはその涙のわけをちゃんと訊かなかったのだろうと、ぼくは今でもあの日のことを思い出しては切なくなる。あの時もっとちゃんと彼の話を聞いていれば。たぶん彼はけして泣き上戸だというわけではなくて、きっとその時にはもう、決めていたのだ。
 この家を出て行くことを。



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