ともに溺れゆく





カチという小さな音の後の電子音が静かなエントランスに響き渡る。

暫しの沈黙…、どころか、応答は無い。

こんな事もあろうかとオートロックの外し方を聞いておいて良かったと、一人ごちて、暗証番号を左手で叩く。


ゆっくりとした動作で開くガラスの扉を足早に通り抜けて、次はエレベーターホール。


悔しい事に一般家庭よりも少しばかり貧乏な家で育ったオレにとって、この高層マンションという名の巨大な建物は別世界の物だ。
30階以上に家がある意味が分からない。



玄関エントランスから途中迷ったお陰で結構な時間をかけてたどり着いた最上階には扉が一つしかなくて、俺とは違う世界の住人なのだと認識させられる。



なんだか目眩がしそうになって、誤魔化すようにまた呼び出し音を鳴らす。
合鍵なんてものは流石に持っていないから、何度も何度もカチカチと繰り返し押してやる。




「…どちらさまですかー。」



ゆったりとした動作でふらふらと外に顔を出した男の首根っこを掴んで、家の中に押し入ってやる。




「風邪引いたなら早くそう言え馬鹿野郎!!」



右手に下げたスーパーのビニール袋をガサガサ言わせながら、無駄にだだっ広い家の中を突き進む。



「…え、もしかして、看病にきてくれたんですか?」



そうだったら嬉しいです、とボーっとした顔でもごもごと喋る葵を寝室(と思われる場所)に引きずり込んで、ベットに押し付け布団を被せた。



「ち、ちげぇよ馬鹿!!お前のためじゃねーしな!!」



お前の引いた風邪がオレにうつったらこまるじゃねーか、だなんてよく回らない頭で捲くし立てれば、にやにやと笑われた。腹立つ。



悔しいので、薬局で買ってきた冷却シートをデコに叩きつけてやった。
頭痛も酷かったのか、もんどりうって悶えている。ざまぁみろ。



「嬉しいです。君がうちに来てくれるだなんて。あぁ、今お茶を入れますね…。」
「馬鹿寝てろ。」
「でも…」
「良いから、病人は大人しくしとけ。」
「はい…。」


もてなそうとするその心意気は良いが、さすがに病人にもてなして貰うほどオレは悪人ではないし、そもそも何しに来たのかって話になってしまう。
もう一度葵をベッドに寝かしつけてから顔を覗く。
熱が高いのかずいぶん辛そうだ。



「飯は食ったか?」
「空くんが作ってくれたお粥をいただきました。」
「薬は?」
「空くんが持ってきてくれた嫌がらせのように苦い薬を飲みました。」
「じゃあ、寝ろ。」


オレをこの部屋に派遣した割に必要な事は全て終わらせているとは、オレが来た意味はあるのか?



「はい…。あ、でも君はもっと危機感を持つべきです。」


ずれた布団を直した手を掴まれて、気づけば世界は反転していた。



「君を好きだという男の部屋にのこのこ無防備にやって来るなんて、期待、してたんですか?」


熱い吐息と共に吐かれた甘い言葉は麻薬のように脳内に染み込む。


指先で唇をなぞられる。


触れた熱を自覚してしまったら、もう戻れない。



「う、うるさい!!病人は寝てろ!!」



熱を誤魔化すように頭突きをかまして、逃げ出した。


後一歩でも踏み込んでしまえば、戻れないと解かっているから、臆病なオレはもう何処へも動けない。






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