「コート、燃えてますけど。わざとですか?」

背後から投げられた言葉にロシナンテはぎょっとして自身の左肩を見た。白いコートの襟先にはいつの間にか真っ赤な炎が広がっていて、じりじりと黒煙を上げている。
これでコートを燃やしたのは六度目だ。またセンゴクさんに怒られる。そう思いながら、彼は煙草を噛み右手で火を払う。

海軍本部。直属の上司・センゴクの命により、ロシナンテは密偵船の前で人を待っていた。その人物とコンビを組んで、ある海賊の動向を探るのが本日の彼の任務だ。

「危ないところだった。教えてくれてありがとう」

消えたことを確認してからふり返る。帯刀した若い女が小首を傾げてこちらを見上げていた。表情のない顔、光の宿っていない瞳。目付きが悪い、とロシナンテは第一印象にそう思った。
刹那の沈黙が通り過ぎる。笑顔でも作ろうかとロシナンテが思ったとき、す、と女が視線を逸らした。それは会話を打ち切るような、それでいて興味をなくしたときのような、冷たい仕草だった。ロシナンテは反射的にドキリと背筋を伸ばす。なにか気に障ることを言っただろうかと不安になった。
女が斜め下を向いたまま、色が薄い唇から無愛想な声を放つ。

「――え?」

返事を望んでいたはずなのに、ロシナンテは彼女の短い言葉を聞き逃してしまった。いえ、と言ったのか、それとも他の言葉だったか。一歩近付いて聞き返すと、女はまた抑揚のない声で言う。「袖」

「袖に燃え移ってますけど。わざとですか?」

そで? と手元に目をやる。そこには先ほど火を払った右手の袖が五センチほど燃えてなくなっていた。ああ、袖。納得と驚きが混じる間も炎の手はさらに拡大し、ついに産毛に燃え移る。
ロシナンテは冷静に右腕をふって消火に入った。こんなことは日常茶飯事なのだ。ぼう、ぼう、と火の玉が空を切り、その尾がちぎれて萎んでいく。長袖着るんじゃなかった、と脳裏に後悔がよぎる。任務前に着替えに行かなくては。

燃え盛る袖。中々消えねェな、とロシナンテが焦り出したときだった。彼の頭上から一瞬の滝が落ちてきた。

「……ん?」

ぱたり。毛先から雫が落ち、ロシナンテは我に返る。途端にぞっとするような寒さが全身を震え上がらせた。黒焦げになった右袖がべったりと手首に張り付いる。今、一体なにが起こった。

「焼け死ぬおつもりですか」

冷水と同じ温度の声がバケツを持った女から掛けられる。焼け死ぬというより今は凍え死にそうだ、とロシナンテは歯をカチカチ鳴らす。彼の周りだけアスファルトの色が濃い。氷もそこかしこに散らばっている。

「……は」
「風邪を引かれますよ。さっさと着替えてきてください」

――なんて女だ。初対面の相手に無表情で氷水をぶっかけるとは。驚きを通り越して呆然とする。言葉も出ない。
「それに」固まっているロシナンテに女はさらに言葉を続ける。もう一度視線が噛み合った。ぞくりとするほどの闇の深い瞳に、心が覗き込まれそうだった。

「偵察に制服でくるなんて馬鹿なんですか? ロシナンテ中佐」

階級を強調するように言った女。そこでロシナンテはようやく彼女が今回のパートナーなのだと悟る。やりにくい相手が来たもんだ。思わずびしょびしょの頭を掻く。

「悪い、うっかりしていた。すぐ私服に着替えてくる。それにしても、氷水はやり過ぎだと思うが」
「知りませんか。氷水を被るのが今の流行ですよ」
「それ何年か前の話だろ!」
「はぁ、そうでしたか。すみません」

反省の色を見せない女はまた小首を傾げて「それにしても」とロシナンテと同じ台詞を口にする。「センゴクさんからドジだとは聞いていましたが、まさかここまでとは思いませんでした」

女の言葉に「お前のドジを完璧にカバーできるであろう部下を一人付ける」と言ったセンゴクの顔がよみがえる。本当に彼女がその部下なのか。口角を下げたロシナンテに女は緩やかなスピードで敬礼をする。海兵特有のきりりとした姿勢ではあったが、その瞳には上司に対する尊敬が一切見られなかった。

「申し遅れました、ナナシであります。階級は少尉です。今回の任務にご一緒させて頂きます」

ナナシ。心の中で女の名前を復唱したロシナンテは、よろしくなと笑みを作った。今回の任務、大丈夫か。そんなことを考えながら。

「出発時刻です。用意を」
「あ、ああ。急いで着替えてくる」

焦げて濡れたコートを翻しロシナンテは本部に向かう。「足元、気を付けてくださいね」言われた瞬間、ロシナンテの靴が氷を踏んだ。つるり。

*

「ここ数日、このガルダの滝付近で海賊船を見かけたという報告が続いています。どうやら滝の奥にある洞窟内でなにかしているらしいのですが、今回、私たちはそのなにかを探るべく偵察に向かいます。目撃証言によれば、どうやらクラン海賊団から分裂した一味らしいです。――クラン海賊団は頭の良いヤツらですからね、今回の一味もただの宝探しというわけではないでしょう」

偵察船の甲板でナナシはそう言いながら双眼鏡を覗いた。遠くに見えるのは世界三大瀑布であるガルダの滝。夕闇の中、白く強大な力で川面をごうごうと叩く光景は壮観でありながらどこか恐ろしい。ナナシは言葉を続ける。「洞窟内部まで潜入しますので、中佐の能力が成功の鍵となります。アナタのドジっぷりは把握しましたので心配はありません。私が――」

彼女の後ろで暮れゆく空に向かって煙草の煙を吐いたロシナンテは、思わず「おいおい」と口を挟んだ。涼しい風がひとひら吹き煙を攫っていく。

「たしかに俺は生まれながらのドジっ子だが、任務に差し支えるほどの失敗をするつもりはないぞ。用心こそすれ、心配される筋合いはない」
「いえ、心配するべきは少佐の方だと思いますが。まぁ、いいでしょう。アナタのドジはすべて私がカバーしますので」
「……それはどうも」

フィルターに唇を挟み息を吸い込んだロシナンテにナナシがふり返る。昼、あれほど光を宿していなかった瞳が、なぜか今、小さな蝋燭の炎によって猫や梟のようにちらちらと緑の光を放っていた。黒だと思っていた虹彩が黒曜石のように輝き、不思議な空気がロシナンテを包む。まるでなにか神秘的なことが起こるのではないかという、そんな予感がした。こんなに綺麗な目は、見たことがない。彼はすぅと息を呑む。

「う、げっほ! げっほ!」
「どうされました。人の顔を見るなりむせ返って」
「悪い……げほ、ナナシの目が綺麗だったもんだから」

素直に伝えた気持ちに、ナナシは照れることも動揺することもなく「ああ」と感情に乏しい返事をした。指で頬の辺りに触れ睫毛を伏せて「生まれつきなんです」と呟く。「アナタのドジと同じですね」

それにロシナンテは心に引っかかるものを感じた。ナナシの声が少しだけ沈んだような気がしたのだ。けれどそれはほんの微かな変化であり、彼女の声が掠れただけかもしれないし、ロシナンテの気のせいかもしれなかった。しかしロシナンテは思う。その瞳のせいで彼女はなにか、普通とは違う特別な――それは恐らく不幸とか不遇とかそういう部類の――経験をしたのではないか、と。勝手な同情と勝手な親近感が彼の胸にじわりと広がる。

「でも」

ナナシの瞳がまたきらりと光る。その眼差しはロシナンテの思考を否定するような、打ち消すような、あるいはしようとしているような意思が篭っていた。篭っている気がした。

「私は気に入っています。夜目が利くので便利です。――アナタのドジと違って」

感情を人任せにする不思議な女だ、と思った。なにが彼女を作っているのか、なにが彼女を動かしているのか、さっぱり分からない。無機物の塊みたいだ。

「俺のドジだって悪いところばっかじゃないぞ」とロシナンテは口角を上げる。明るい声色で。ナナシが否定しきれなかった自身の想像を払うように。
「はぁ」ナナシが曖昧に頷く。「と、言うと?」
「愛嬌がある」
「こんな大男に」

ふ、とナナシが笑った。笑った気がした。しかしたしかに、彼女の肩は揺れた。
そろそろ行きましょう、とナナシは船の帆を広げた。滝の東、ルリナン島の大地を踏んだのはそれから三十分後のことだった。きつい勾配の坂道を上り、街に辿り付いたのはさらに五十分後。作戦開始は深夜である。
ナナシの案内で店に入り、二人はまず腹ごしらえに食事を取った。静かな食事かと思ったが、ロシナンテの予想は外れ会話は弾んだ。ナナシは無愛想だが口は達者だった。ロシナンテから話をふらなくとも彼女が緩やかなスピードで話題を提供するので沈黙に困ることもなかった。
夜が深まるほどナナシの瞳は輝きを増していった。ランプの灯りをきらきらと反射させるそれにロシナンテは何度も見惚れてしまった。「不思議だな」とつい呟くと、彼女は「はぁ」と気の抜けた返事をした。
街の人々が家路につき店がだんだんと閉まり出す頃、二人は再び滝の方角へ向かった。今度は崖から見下ろす形で周囲の様子を観察し、近くに海賊船が碇泊しているのを見つけると、彼らは頷き合い絶壁をその身一つでおりてゆく。

「落ちないでくださいね。アナタを抱えて泳ぐなんて私は御免ですよ」
「馬鹿言え。任務前に死んでたまるか」

びゅうびゅうと強い風が吹いている。滝から寄せる飛沫は固い。普段触れるものと違い、この水は石に似ている。
ロシナンテは知っている。本物の石が身体に当たるときの感触や痛みを。あれに比べれば、この小さな投石など痒いものだと彼は思った。悲鳴を上げるほどでもない。
彼らは持前の身体能力で、十分もしない内に滝壺近くの岩場まで辿り付いた。轟音が響き渡り、足元が震えている。「すごいな」と呟いたロシナンテの声は彼の心にしか聞こえない。真っ暗で威圧的な水の塊がすぐそこにあった。あそこに手を差し伸べれば、腕は乾いた音で粉々に砕けるのだろう。
ロシナンテがずぶ濡れになった髪を掻き上げると、ナナシも頬にかかった一束の髪を耳に掛ける。二人はぬるぬるとする岩を飛び跳ねながら移動し、ついに滝の真裏まで到達した。

洞穴には松明が点々と燈っていた。人工的に舗装された通路は細長い。先は暗闇が広がっており、かなりの深さが予想された。

「だれもいないな」

洞穴の中は静かだった。一枚のフィルターを挟んだように、あの轟音が遠くに感じる。ふり返ってみると、瀑布の真っ白なスクリーンには猛烈な吹雪が映し出されていた。

「早く能力を使ってください。向こうには人がいるかもしれません」
「ああ」

パチン、とロシナンテが指を鳴らすと完全に音は遮断された。夢の中にいるような、静かで現実味のない空間が彼らの周りに広がった。少しだけ乱れた二人の呼吸がお互いの耳に微かに聞こえる。「すごいですね」と呟いたナナシの声は透き通るように響いた。
彼らは彼らだけの空間の中で、足音を立てながら進んだ。ナナシの目は夜のハンターのように薄暗い通路の先を見据えている。いつ得物が来ても瞬時に息の根を止められるように、食い殺せるように。歩調を変えず隠れる仕草も見せない、緊張とは無縁の気配を放ちながら、その瞳だけは獣のように猛々しい。どちらが正体なのだろうとロシナンテは考えた。

「外の音が聞こえないので分かりづらいですが、気配はありませんね。この通路にどうやら人はいないようです」
「随分長いな。舗装されているし、元々なにかの施設だったのかもしれない」
「中佐。そこの溝、気を付けてくださいね」
「見えてるよ」

〈サイレント〉の空間に入った松明がぱちんと火花を立てた。二人の影がゆらりと揺れる。

「知ってますか、中佐」ナナシはぽつりと言った。「この島には昔、人魚を食べる習慣があったそうですよ」

彼女の声が止んだ途端、不気味な沈黙が訪れる。「なんだって?」ロシナンテの出した声は小さく動揺していた。

「人魚を食べると不老不死になるとかなんとかで。千年以上前の話ですがね。その後人魚食は廃止されたようですが、一部の信者にその文化が根強く残っており五百年前までは祭日に隠れて食べられていたらしいです。恐らくこの通路はその集会所に繋がっているのでしょう」

急速に吐き気が襲ってきた。忌々しい、とロシナンテは無意識に言う。
幼い記憶だが、彼が住んでいたマリージョアでも人魚食の話は耳にしたことがあった。あれを聞いたときは幼心に大変ショックを受けたものだった。
不老不死など伝説だ。それは雲の上にいる世界貴族たちが証明している。あそこの連中は人魚のことを魚というが、人種が違うだけで人魚も同じ人間なのだということを元住人であるロシナンテはしっかりと分かっている。幻想に憑りつかれ、その人間の肉をナイフで切って口に入れ、咀嚼をし、嚥下するなど。

――狂っている。

「どうしてそんなこと」知っているんだ、という声は突然のナナシによる制止で途切れた。
「人がいます」手を下ろしながら彼女は言う。

通路が折れ、先が大きく開いていた。広間に当たったようだった。壁に隠れて様子を窺うと、何人かの男たちが立ち話をしているのが確認できる。
広間は大きかった。半円状に掘られたそこには通路の倍の松明が焚かれ明るい。奥には教会にある祭壇に似た台が設けられている。殺風景な大聖堂のようだった。祭壇の後ろに、また狭い通路が三つ見えた。

「能力を解いてください」とナナシは言った。「これでは会話が聞き取れません」
ロシナンテは頷き、言われた通りにした。ふっと音が溢れる。松明の火花が散る音、湿った岩から滴る水滴、男たちの低い声。すべてが息を吹き返す。

「――はどうなってんだ」
「アレはもうすぐらしい。それよりアイツらはまだ帰ってこねェのか」

腕を組んで話し合っている男たち。一番右側に立つ長身の男の質問に小太りの男が返事をする。彼の声はぼそぼそと小さく、ロシナンテの方まで届かない。

「準備もそろそろ大詰めだな」
「準備だけだ。今からが本番だぞ」

なんの話をしているのかは会話だけでは判断が付かなかった。準備、というワードだけがロシナンテの頭に記録される。ナナシがこちらにふり返った。手招きをしロシナンテの膝を折らせると、彼女はその耳元に唇を寄せる。

「私にカームとやらをかけてください」ひそり。冷たい唇の気配がすぐ近くで動く。
「おいおい、なにするつもりだ」眉根を寄せたロシナンテは口元に手を添えて囁く。
「通路は三つあります、手分けしても余るでしょう。長時間ここにいるのは危険ですから、なにを準備しているのか手っ取り早く知る必要があります」
「だから」
「だから敵を誘き出します。一番多くの人数が出てきた通路を選びましょう」
「いや」とロシナンテは頭をふった。「威力偵察になってるじゃねェか」
彼がそう言うと、ナナシは不思議そうに首を傾げた。「なにを言います。私たちの任務は偵察ですよ。隠密は付いていません」

暫しの沈黙の後、ロシナンテは諦めたようにため息をついた。

「分かった。だがくれぐれも無理はするなよ。敵を誘き出したら極力戦闘は避けて、情報だけを持ち帰る。それが最優先だ」
「了解です。中佐はこの辺りの火を消して待機しておいてください。かく乱を起こしたら一度戻ってきます。――では」

ナナシがロシナンテの耳元から身を引く。背筋を伸ばしたロシナンテは口をへの字に曲げながら彼女の肩に手を置いた。
「いいぞ」と頷くと、ナナシは釈然としない表情でなにかを口にした。当然ながらその声はロシナンテには聞こえない。もちろん広間で喋っている男たちにもだ。
ナナシは男たちの方を向いて大きな口を開けた。大声を出して能力の効き具合を確認している。ほう、と感心した顔をした彼女は携えた刀の柄を握った。ロシナンテは近くにあったものと、それから三つ戻ったところまでの火を手際よく消す。ナナシは男たちの意識がこちらに向いていないことを窺い知ってから、素早く駆け出した。
ロシナンテはこの瞬間が好きではない。先陣を切る部下の背中を見るのは、どれだけ実力を信用していてもハラハラしてしまう。本当は自分が行ってしまいたい。けれど上司である身分としてそれは叶わない思いだった。

ナナシは風のように広間へ突入した。彼女がすらりと抜刀した後は、ロシナンテも気配を捉えるのがやっとだった。まず広間にあるすべての松明が一瞬にして消えた。暗闇が空間を支配し、なにもかもが墨で塗りつぶされる。間髪入れず男の醜い悲鳴が一つ、短く聞こえた。他の男たちの動揺する声がする。恐れながら靴を擦っている。「なにが起こった!」「おい! どうした!」「なにも見えねェ! だれか火を持ってこい!」声が一つ、また一つ、消えていく。「おい! なにが起こってるんだよ! だれか返事をしろ!」震えた高い声が闇に広がり反響する。ナナシが一人を除いた全員を切り伏せたのだとロシナンテは判断した。
遠くから慌ただしく地面を蹴る音がする。音数から予想するに、十人以上の人間がやってきているようだ。ロシナンテの目が慣れ始める。彼も闇に乗じて行動することが多々あったので一般人よりは効きが早い。影を捉える。氷のように冷たいなにかが、ロシナンテの腕を掴んだ。掴まれたところから全身へ急速に鳥肌が走る。二つの緑玉が閃光した。驚く間もなく、ぐいと引かれた腕に身体が傾く。右足が石に蹴躓いた。
――こける。ロシナンテの血が凍り付く。しかし彼の身体はふわりと浮いた。ブラックホールに突っ込む。風になったようだった。ぐんぐんと頭から闇を切る。このままどこかに消えてしまうかもしれない、と思った。

ぼふり。

が、そう思った途端、頭が柔らかくて弾力のあるものにのめり込んだ。胸から降下する。ぼすり。今度は身体の前面が同じ感触に包まれる。なんだこれは。手を付き、目を凝らして確かめる。特別なものは確認できない。首を傾げると背後に気配を感じ、また腕を掴まれる。引っ張り上げられ、そのまま引き摺られる。――よく分からないが、まさか俺は、投げられたのか?
ナナシはロシナンテの腕を引いて、躊躇することなく暗黒を駆ける。後方では男たちが怒声を上げ混乱している。いつの間にか広間を抜けていた。三つの内のどれかの通路を走っている。今度の道はごつごつとした岩肌に囲まれている。一本道だ。彼方に赤い炎がちらついている。

カームを解く。
「ナナシ」ロシナンテは先導する後ろ姿に声を掛ける。「俺のこと投げたのか」
「ええ、まあ」冷淡な返事。「常に最悪のケースを考えているので。あんな場面で悟られてしまっては私の努力が水の泡です」
「だからって上司のことを投げるな」
「だからちゃんとクッションを用意していたでしょう」
「あ、あれクッションだったのか。天才だなぁ、ナナシは」
「前から来ますよ。静かに」

「なにが起こっている! だれか報告しろ!」

炎が向かってくる。オレンジの燈火が二人の足元に迫る。ロシナンテは咄嗟にナナシを引き寄せた。そして彼女の腹に腕を巻き付け「分からない! みんな来てくれ!」と叫んだなり大きな岩の陰に身を潜めた。
男たちの掲げた松明の熱がロシナンテとナナシの横顔を舐める。平常心を失った男たちが彼らに気付くことはない。どたどたと広間の方へ走り去った敵を見送ると、ナナシは肩を竦めた。

「かくれんぼですか、中佐」
「戦闘は避ける。言ったはずだ」
「行儀がいいですね。やってしまえば帰りが楽なのに」
「ナナシは案外、行儀が悪い」
「育ちが悪いので」

岩陰を抜け出し先を目指す。海賊たちはロシナンテが呼んだ通り、律儀に全員が飛び出していったようだ。聖堂の半分ほどの面積がある四角い空間に突き当たる。そこにはランプが二つだけぶら下がっていた。薄暗い部屋の中央に石机が設置されている。その上には丸底フラスコや試験管、天秤などの道具が雑然と置かれていた。蒸留器の横にはハーブに似た葉が磨り潰された状態で盆の上に盛ってある。棚には生物――なのかも実際は判断が付かない――の一部のようなものがホルマリンに漬けられて並んでいる。部屋全体が鼻を衝く異臭で満ちていた。

「なにかの実験か?」落ち着かない様子で周囲を見渡したロシナンテは顔を顰めて言う。なぜだかゾクゾクと嫌な予感がしていた。
「かくれんぼの次は科学者ごっこですか」映像電伝虫のカメコを持ち、撮影を始めたナナシが小さなため息をつく。「いや、これは錬金術師ごっこですね」
「錬金術?」
「ええ。これを見てください」

そう言って彼女が手にしたのは乱れた文字でびっしりと埋まった一枚の紙だった。ぐっと顔を近付けたロシナンテは「汚くて読めねェな」と呟く。

「ここに〈エリクサー〉と書いてあります」
「エリクサー? って、あのエリクサーか?」
「ええ。どうやら彼らも、不老不死の幻想に捕らわれた哀れな馬鹿どもらしいです」
「……不老不死」

どうして人は永遠の命を求める。どうして、今生きていられていることだけで満足できない。
ロシナンテは俯いて机に手を付いた。忘れかけていた吐き気が、胃のむかつきが、襲ってくる。ここには邪悪な空気が満ち満ちている。畜生、煙草を吸いたい。

「不老不死なんて、いいことは一つもない。中佐もそう思いませんか」

カメコをポケットにしまったナナシが瞳を光らせる。今日一番強い、紛れもない意思がこ篭る、痛烈な眼差し。
息が詰まった。返事は決まっているのに、あまりの美しさに言葉が出なかった。ごくり。ロシナンテの喉が鳴る。「――まったくだ」絞り出した声はひどく掠れていた。

「ではどうします? そろそろ切り上げないと馬鹿どもが戻ってきますが」

否定か肯定か。無か有か。死か生か。ナナシの瞳にはなにもかもが見えている。ロシナンテは自身が天秤に掛けられている錯覚に陥った。この答えですべてが決まるのだと第六感が告げている。理屈じゃない。
彼はぐっと歯を噛みしめた。正直な気持ちを伝える準備を整えていた。
任務に背くことになっても、例えそれで罰せられようと、今やらなければいけないこと。絶対に間違えではない、命を賭けてもいい。なにを恐れることがある。「全部、燃やす」固い声でロシナンテは選択する。否定を、無を、死を選択する。

能力を使っているわけでもないのに、彼は静寂の中に立たされていた。ナナシが小首を傾げて、じっとこちらを見定めている。

そして審判が下る。

「素晴らしいですね、最高です。チョベリグです」
「ふるっ!!!」

チョベリグです。無感動な表情で親指を立てたナナシの言葉にロシナンテはすっ転んだ。「死語!」
なんて緊張感のない! 今の張り詰めた空気はなんだったんだ!

「朝より時代錯誤が進んでるぞ!」
「はぁ、そうでしたか。すみません」
「力抜けたぞっ」
「それはいけません。さっさと焼却してトンズラしないと」

自分のリアクションとナナシの態度に果てしない距離を感じたロシナンテは、頭を掻きながら起き上がった。なんとか心を落ち着かせるために懐から煙草を出してマッチを擦る。
その間にナナシは部屋中にアルコールを撒いた。特に資料が積まれた場所は念入りに。「では」ありったけのアルコールをぶちまけた彼女が「火だるまにならないように――」とふり返って静止する。

「なんでもう燃えてるんですか。わざとですか?」
「え?」

ナナシの視線を追ってみると、自分のシャツの裾辺りがじりじりと燃えていた。動揺して煙草を挟む指に力を入れていなかったせいだ。

「またやっちまった」
「すみません、手元に水がないので消火できません。もうこうなったら、そのままここにダイブしちゃってください」
「するかァ!」

急いで叩き消し、ため息をつく。なんだか今日は疲れた。さっさと片付けて帰還しよう。
もう一度マッチを擦り、小さな火をアルコールが掛かった資料へ投げる。瞬く間に真っ赤な炎が起こり部屋の温度が上がった。「行きましょう」というナナシの合図で、二人は通路へ引き返した。

暗黒の道に赤が踊るように揺れる。熱が暴れ始めている。ガラスが破壊される派手な音が通路に響き渡った。小爆発が起こり強風が二人の背中を勢いよく叩く。前方の広間から海賊の声が聞こえる。「今度はなんだ!」「爆発か!?」
左の通路から伸びた赤い影と噴き出た砂煙。広間にほのかな明かりが射した。海賊たちはそのとき初めて知ることになる。仲間の死体が足元に転がっていることに。彼らの緊張は最高潮にまで達し、だれ一人動くことができなかった。
まったく分からない。広間の松明が消え、仲間が死に、実験室が爆発している意味が。何者かが侵入している? しかし、その姿はどこにも見当たらない。足音や気配さえも捉えることができない。ここには仲間の他にはだれもいなかったはずだ。自分の手のひらすら見つけることができなかった闇の中で、一体なにが起こった。
「急げ! あそこにはすべてがあるんだぞ!」一人の大声で男たちは我に返る。突き動かされるように実験室へ駆け出す。あそこには自分たちの夢が希望が詰め込まれている。

通路はすでに灼熱が充満していた。彼らが馬のように疾走している合間にも数回の爆発音が鼓膜を震わせる。海賊たちは実験室の数メートル先まで来るとぱったりと足を止めてしまった。近寄ることすら許さない熱の壁がそこにはあったのだ。それはまるで瀑布のようだった。手を差し伸べると骨を砕かれる水の塊と同じように、この壁に飛び込めばきっと、骨まで熱にしゃぶられて灰も残らず消えてしまう。壁の向こうには轟々と炎が蹂躙している。どうすることもできなかった。信じられない光景に彼らの頭は真っ白に塗りつぶされていた。

「み、水だ! 早く水を持ってこい! このままじゃ全部燃えちまう!」

その一声で彼らは弾かれたように再び足を動かした。来た道を引き返し、広間を突っ切り、水を求めて。「おい!」最後尾の男が突然、前方の仲間を引き止める。「これ!」指差したのは岩壁。あまりの状況に来たときは気付かなかったが、そこは人一人が通れる大きさの風穴が空いていた。崩れた岩の先に隣の通路が見える。

「くそォ! やられた!」

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