[恋愛 この人となら幸福あり]

「なぁ、この後暇?」

いつも通りに仕事中。奇跡的に定時上がりの今日ははやく帰って好きなだけだらけていようと心に決め、うきうきしながらキーボードを叩いていると、ぽんと肩を叩かれて悲鳴をあげかけた。
ばくばくとうるさい左胸の当たりを押さえてどうにか振り返ると、同期の花咲が相変わらず飄々とした様子で笑っている。
驚かせたならごめんと謝ってくるけれど、誰だって好きな相手から急に声をかけられたら驚くに決まっている。しかもそれが仕事に関係のないものなら尚更だ。

「ひ、暇だけど…どうかしたのか?」

緊張のあまり唾を呑み込んでから、決して声をかけてもらえて嬉しいなんて思ってませんよという態度になるよう気をつけつつ返事をする。ここであからさまに喜んで気持ち悪いもでも思われた日には泣いてしまうだろうから。

花咲はそんな俺の葛藤になど気付いていない様子で人懐こそうな笑顔を見せた。

「初詣に行こう」

シンジュクから数駅離れたところにある神社はビルに囲まれた街の中で一際目立っていた。辺りに木々が生え揃い、その中を隠していたからかもしれない。その奥になにか神秘的なものが眠っているような荘厳さがあるのだ。

まだ寒さが残っている日もあるが、だいぶ春に近付いた夕暮れの空は明るすぎす、暗すぎず、歩くにはちょうどいい。
鳥の群れが飛び立っていくのを見送りながら、どうしてこんな状況に置かれているのか。これが神の試練というやつなのだろうかとそんなことをぼーっと考える。

隣を歩いているのは、どこからどう見ても片想いの相手だ。こちらから好意を伝えたことも、積極的に関係を持とうとしたこともない。
そんなことを同じ男である俺からされるなんて嫌だろうし、彼はいつも晴れ晴れとした空のような爽やかな青年で、自分はそろそろ身も心も枯れてしまうしがない中年だ。そもそも釣り合っていない。

だから業務で必要な時以外はこちらからは話しかけないようにしていたのに、彼の方はこちらの遠慮なんてお構いなしに飲みに誘ってきたり、一人で寂しいだろうからと残業している俺のところまで顔を出しに来たりしてくるので困ってしまう。それをあからさまに喜んでいいものか、迷ってしまうから。

神社まで続く通りには様々な店が並んでいたが、正月を何ヶ月も過ぎた平日のこの日にわざわざ来る客もいないのか、道に引かれた白砂利も相まって閑散としているように見える。どこからかほんのりと醤油の匂いが漂っていた。

「しかしなんで三月に初詣なんか……」
「だって俺たち、年明けのぎりぎりまで仕事だっただろ。それで初詣にまだ行ってなかったなって今日気付いたんだ」

気付くには遅すぎやしないか。そう思ったが黙っておく。そのおかげで彼とこうして二人でいられるなら、あの年越しと年明けの忙しささえ華々しい記憶だ。たしかにあの時は初詣に行きたいななんて考える暇もなかったから、彼が今更ながらにそう思うのもわかるような気もしなくはない。俺なら一月中に行けなかったら諦めるだろうけど。

「あ、俺団子食べたい」

花咲が急に足を止めたので、後に続く。彼が興味を示したのは和菓子屋のショーケースだった。餡子だけでなく、ずんだや芋餡など数種類の団子が並んでいる。
店のお婆さんからしょうゆの団子を一本買うと、「観音坂は?」と聞いてきた。予期せぬ問いに戸惑いながらも、無難に「あんこ」と答えると彼はそれも追加して買ってくれた。
串に刺さった三粒の団子の上で自家製なのかところどころ粒の残った餡子が鎮座している。団子なんていつぶりに食べるだろうかと思いながら一つ頬張ってみる。久しぶりのあんこの味は優しい甘さだった。続けてもう一つ口に運ぶ。

「うまい?」
「うん、うまいな」
「そりゃよかった」

奢ってくれた礼を言って最後の一つを食べようとする。が、なかなか口へ入れられない。花札がじっとこちらを見つめてくるのだ。無言の圧に耐えきれなくなってどうかしたのかと聞くと、自分の分と交換しようと言い出した。

「いや、お前。子供じゃないんだから」
「そっちのも気になる……」
「買えばいいだろ、買えば」
「分け合ったほうがいいんだ。思い出の味になるから」

俺のもやろうとすでに残り一つになった団子を差し出される。思い出の味ってなんだ。思い出す機会があるのか。というか、よくそういうことを平然と言ってのけるな。
これが好青年のなせる技なんだろう。さっきまで自分の残りなんてと思っていたのに、今は花咲の方から自分の分を分けてくれることを嬉しく思っている。

串を交換して最後の一つを食べ合った。さっきのしょうゆの匂いはこれだったのかもしれない。甘くなっていた口の中に香ばしい味が広がっていく。和菓子の味はじんわり染みていくような気がして好きだ。気になって花咲の方を盗み見ると彼も同じ気持ちなのか、頬を緩ませていた。

土産屋を覗いてご当地物のストラップなどを見てから神社に入った。散歩途中のお年寄りがつぼみをつけはじめた桜の木の下でのんびりとしている以外に人はいない。白い梅の花が点々と咲いた木は冬の終わりを思わせる。

手水舎に入って柄杓を手にした花咲に倣うと、彼はぴたりと動きを止めた。

「手を洗うのってどういう順番だっけ?」
「左手じゃなかったか? たぶん、だけど……」
「あんま信心深くないんだな。神様みたいな名前なのに」
「どうせ名前負けしてるよ」
「はは、そう卑屈になるなよ」

花咲が手順を思い出しながら手を洗い流すのを待ってから自分も彼の真似をする。一人で神社や寺にはなかなか来ないから、手を洗わなくてはいけないことなんて忘れていた。
合っているのか、間違っているのかさえあやふやな作法で水をかける。手を振って水気を払いながら鞄からハンカチを出そうとすると、「ん」先に花咲の方から差し出された。チェック柄のそれをおずおずと受け取る。

「悪いな」
「いいって。それよりさ、おみくじひきたいな」

悪い気がして軽く触れるだけで手を拭いてから返すと、なんてことはないという顔で受け取って鞄にしまった。そういうところが俺にない部分だと憧れる。

昔、まだ自分も彼も新人だった頃、歓迎会と称した説教と自慢話だけの飲み会に参加させられた時があった。まだ慣れない環境で酔った上司たちの相手をするのは大変で憂さ晴らしに無理やり酒を呷っていたので、すぐに具合が悪くなった。

どうにも気分が悪くてこっそり部屋の隅の方で休んでいた俺の元へ花咲は突然やってきた。そっと俺の背を撫でてから「もう帰れるように課長に伝えてあるから」と耳元で呟くとまた大勢の輪の中へ戻っていく。
ひどく酔っていた俺は自分の作った幻だろうと思いつつも彼の言葉を信じて店を出た。咎める者は誰もいなかった。

思えば、あの時から花咲のことを意識していたんだと思う。あの時のことで礼を言っても「同期なんだし、協力してやっていこうな」と笑顔を向けられて、あまりの眩しさに目が眩んでしまいそうだった。
自分だったら絶対にあの場で同じ境遇の奴が抜けだすなんて許せない。自分だけ楽しやがって。と、そう思ってしまうに決まっているのに。

花咲の前向きさには今でも救われている部分はある。
そして彼の自分にはない器量や明るい笑顔だけでなく、時に無理を強いてくる上司への愚痴を互いに漏らし合ったり、残業した夜には缶コーヒーを奢り合ったり、そんな人間くさいところにもだんだんと惹かれていったのだ。

それを自覚したのは最近で、だからこそ今日この日にまさか二人きりで出かけられるなんて思ってもみなかった。
墓場まで持っていこうと思って背後に隠しておいたはずの気持ちが、彼を前にするとどくどくと高鳴る鼓動になって主張してくる。
この歳になって恋をするというのは、本当になんて厄介なんだろう。相手が相手なだけに、より厄介だ。

「観音坂、十円持ってる?」
「え、あ、ああ」

思い出に耽るのをやめて顔を上げると花咲が財布から十円玉を取り出している最中だった。自分もお賽銭を用意して、二人で本殿の前に置いてある賽銭箱のほうへ向かった。
横に並んで十円玉を投げる。カツンカツンと高い音を立ててから吸い込まれるように落ちていくのを見送って手を合わせる。
神社だから、二礼二拍手一礼のはずだ。その通りの動作をすると、花咲も真似をしてから手を合わせて目を閉じた。

神様にお願いしたいと思えるほどの願いが俺にあるだろうか。仕事のこと、チームの二人のこと、これからのこと。
たくさん思いつくけれど、どれも神様にどうこうしてもらうことじゃないような気がする。全部、自分が頑張れば済んでしまうことだ。

こうして手を合わせて真剣に願いたいこと。それなら。
そっと目を開けて隣に立つ花咲の姿を見る。夕暮れと夜の合間の空から降り注ぐ温かな光が彼を照らしていた。目を閉じ、手を合わせたまま、じっと動かない。
真剣なその様子に、なにをそんなに祈っているのか聞いてみたくなるが、邪魔をするのも悪いだろうと俺もまた目を瞑った。

「ずいぶん長かったな」

本堂から少し離れた砂利道を進みながら花咲にそう問いかけてみる。
どんな願い事をしたんだとは聞きづらくて、素っ気ない言い方になってしまった。花咲は少し照れくさそうに頭をかく。

「だってさ、よく考えたらこれが新年一発目の願掛けだろ。だからついいろいろお願いしてきちゃったんだ」
「十円一枚で聞いてくれるといいけどな」
「お前だって結構長かっただろ。十円一枚で」
「そうかもな」

境内の中は相変わらず静かだ。学生たちの帰る時間も過ぎているし、夜に遊び歩くような連中はわざわざ神社には来ないのだろう。
シンジュクから数駅離れただけで、駅周りは活発に人の流れがあるのに、この敷地の中だけは別世界のようにゆっくりと時間が過ぎている。隣に彼がいるからかもしれない。

「おみくじある。ひこう」

社務所はもうしまっていたが、おみくじは外に置かれていた。花咲はいち早くそれを見つけると百円片手に駆け寄っていく。いつも明るいやつだけど今日は一段とご機嫌みたいだなとその背を追う。

先に社務所に着いた花咲がなにやら両手を胸の前でぎゅっと握ったままにこにこしているのでどうしたのかと尋ねると、「一緒に見ようと思って」と言われて胸がきゅんとしてしまった。まさか同年代の男相手にかわいいと思う府がやってこようとは。
居酒屋で俺の背を撫でてくれたあの花咲は俺よりずっと人生経験があるような、大人びた印象だった。ろくに上司の相手をせず潰れた自分を責めもせず、文句も言わず、静かに出て行けるよう先導してくれた。
なのに今はおみくじの結果を二人で見せ合いたいなんて子どものように笑うのだ。

おみくじの入った木箱に百円を入れて、穴の中に手を入れた。指先に紙が触れてカサカサと音を立てる。
もし。もしもこのおみくじの結果がよかったなら。ほんの少しでも希望の持てるものだったなら。
俺は明日からもっと積極的に花咲に声をかけに行こう。飲みに誘うのも、残業の時も、待つばかりじゃなくて自分から行動して、そしていつか、たとえこの思いが伝えられなくても、一生友達のままだったとしても、それでもいいと思えるような関係になりたい。
それが今の俺の願い。神様に祈りを捧げるほどの、願いだ。

悩むときっと一生終わらないので直感で紙を一枚、引っ張り出した。中を見ないように開ける。
「せーの」花咲の声に合わせて互いのおみくじをひっくり返した。花咲は大吉だ。俺は。

「凶……」

黒々と書かれたその文字。凶。どこからどう見ても、凶。

「あー…どんまい、観音坂。ほら、先に運を使い果たすとよくないって言うし、まぁそれでよかったんじゃないか」
「幸先が悪いとも言えるよな……」
「そんな暗い顔するなよ」

ずーんと重い雰囲気になったことを察してか花咲が背を撫でて慰めてくれる。それは嬉しいけれど、まさかこんな悪い結果になるなんて思わないじゃないか。
おみくじには項目ごとにいろいろと書いてあたけれど読む気にもなれずにそのまま折り畳んだ。同時にさっきまでの意気込みも決意も、なにもかもが儚い夢だったかのように崩れていく。
無理だ。ここで凶を引く男が花咲と仲良くなろうだなんて。希望が。望みがなさすぎる。

「もうそれ木に結んできたらいいんじゃないか」
「そうだな。どうせ何度見たって凶は凶だしな……」
「なんでそんな落ち込むんだよ。信心深くないんだろ。気にしなきゃいいって」

たしかにいつもならここまで気にしていなかっただろうな。いつもならおみくじはポケットに入れてそのまま忘れてしまうぐらいの存在で、俺にとってはそこまで大事なものじゃない。参拝だって年明けにするぐらいで、自分から神社に行こうと思って行ったことはないような気がする。
そのぐらい軽い気持ちでいつも過ごしているのに、いざ気合を入れてみたら運に見放されたなんて当たり前と言えば当たり前のことだ。
それでも今回だけは。せめて吉でもいい。ほんの少しでも良い結果だったなら、きっと勇気をもらえたのに。

「この木に結んでいいみたいだぞ」

落ち込んでいる俺に気を遣ったのか、花咲は近くのおみくじの結ばれている木の空いている部分を見つけてそこまで手を引いてくれる。
そうだ、せっかく花咲と一緒にいるんだから暗い顔ばかりしていては悪い。はやく結んで手放してしまって忘れてしまおう。
おみくじを細く折り畳んでから木に結び付けた。破れてしまわないように注意しながら結び目を縛る。悪い運命とはこれでお別れだ。そう自分に言い聞かせながら。

「花咲?」

結び終えてその場を離れようとする俺の隣で花咲が何かしていることに気が付いて視線をやると、彼は自分のおみくじを木に結び付けていた。俺がつけたおみくじの隣に自分のものを結ぶと彼は満足気に長い息を吐く。

「お前、たしか大吉だろ。結ぶ必要ないんじゃないか」
「いいんだ。もう中身も読んだし」

そういうものだろうかと思いつつも、満たされたような顔で目じりを下げているので言及しないでいると、花咲は結んである俺のおみくじに指先で触れた。

「それに、一人でいると寂しいだろうから」

その言葉に残業を強いられ、暗くなったオフィスで一人パソコンのディスプレイを眺めていた時のことを思い出す。
やってもやっても終わらない業務をどうにか仕上げてしまおうと躍起になっている俺の元に缶コーヒーを持って現れたのが同じく会社に残っていた花咲だった。
「隣の部署だから遊びに来た」と言う彼は空いている席の椅子を引っ張ってきて俺の横に座ると、「息抜きどーぞ」と缶コーヒーを渡してきてくれる。
有り難く受け取って彼の缶と触れさせ合う。かつん。こんな遅くまで頑張っている者同士の乾杯だ。わずかだけれど、やる気が戻ってきた。

「そっちの仕事は?」
「終わんない」
「だよな」
「まぁ、息抜きなんだから一人より二人の方がいいだろ。そのほうが寂しくない」

あの時は一人での作業が辛くなったのかと心配したけれど、きっとそう思っていたのは花咲の方だったんだろうな。俺が一人で頑張り過ぎてしまわないように気にして、わざわざ自販機までコーヒーを買いに行って、俺に声をかけてくれたんだ。
今も、俺だけが落ち込んでしまわないように一緒にいてくれる。変わらない奴だなと思う。そしてそれが妙に嬉しいんだ。

「今年の抱負はなににしようか」

神社を出て駅の方へ向かう頃には辺りは完全に暗くなっていた。マンションの明かりに負けじと光る星々を見上げながら帰路を歩んでいる途中できた問いかけに悩んで返事を詰まらせる。
今年と言ってももう三ヶ月も経ってしまった。月日というのは早いものだ。気温も四季の移り変わりも、なにもかもに置いていかれてしまっている。夜風が思ったよりも冷たくて肩を竦ませた。

川にかかる歩道橋の下、川辺を沿うように早咲きの河津桜が花開いて薄暗い夜の中で揺らめいている。薄桃色の花たちが大きな体を風に任せてそよそよとなびかせていると舞を舞っているように見えてくる。
この自然の光景にマンションの明かりというのは味気がないけれど、そのおかげで淡く照らされた桜は夜に浮かび上がるようで美しかった。

「うーん……。これ以上残業が増えませんように…休日が文字通り休みの日になりますように…社内泊がなくなりますように……」
「あはは、切実な願いだなぁ」

俺が本気で手を組んで祈りのポーズをとると、花咲がそれを軽く笑い飛ばしてくれた。そうしたら少しだけ本当に叶うんじゃないかって気になるんだ。

「花咲は? なにかあるのか?」

何気なくそう聞いてみると、花咲の軽やかだった足取りが止まった。数歩前に進んでしまってから気付いて振り返る。
橋の欄干に手をかけて散っていった桜の花びらが流れる川を眺めている花咲の神妙な顔つきに思わず息を飲んだ。仕事の時の真剣な表情とも、普段向けてくれるような笑顔をとも違った雰囲気の彼の姿に言葉が出ない。
花咲はじっくり数秒間は川の流れを見つめてから、ふとこちらを向いた。川面を流れる月の光に似た黄金色の双眸がこちらを捉えて離さない。

「今年は観音坂ともっと一緒にいたいかな。……迷惑じゃない?」

首を傾げてはにかむ姿に胸がぎゅっとなる。
あれ、おかしいな。あのおみくじは酷い結果だったのに。今目の前にいる彼の姿も、彼の言葉も、その表情も。
全てが、俺にとって最高のものでしかない。そしてこの状態が今年も続くようにと彼の口から告げられたのだ。

「お、俺でよければ……おねがいします……」
「うん、俺こそ、よろしくお願いします」

どう答えていいのか見当もつかず、咄嗟の思い付きで手を出してみると強く握り返されてしまった。肩が跳ねる。変なところから汗が出て止まらない。
隠していたはずの気持ちはいつの間にか当たり前みたいに俺の胸を高鳴らせ、これからの二人の未来に期待を抱いている。

ああ、神様。十円玉一枚ですみません。
今度札を入れに行きますから、どうかこのまま。
俺と花咲の関係が一体どこで終わるのか、はたまた続いていくのか、見守っていてください。
いつか二人の願いが叶ったその日には、一緒にお参りに行きますから。



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