朝日を浴びて

書類片手に扉をノックして中に入れば、コーヒーの香りがふわりと漂ってくる。彼の好きな物だけを詰めこんだこの部屋に入る、その瞬間がたまらなく好きだ。

「ああ、花咲。悪いな、持ってこさせて」
「いえ、全然気にしないでください」

頼まれていた書類を手渡すと、お礼を言われて微笑まれた。瞬間、心臓が喜びで跳ね上がる。犬みたいにしっぽを振って、この気持ちを伝えられたらどれだけいいだろう。

天国さんが好きだ。彼のちょっとした所作や言葉にどきまぎして、いつもの自分じゃないみたいに胸が高鳴ったりして。二人きりでコーヒーを飲む休憩の時間が永遠になればなんて子供みたいなことを考えて。

こうして一緒に過ごしていくうちにその思いがどんどん強くなって、気が付けば彼を目で追っている時間が増えた。
姿を見かけたら必ず声をかけたし、帰る時間を合わせられるように努力した。それに気付いているのかいないのか分からないけれど、最近はちょっとした用事でもわざわざ俺を指名して任せてくれる。

期待されていると思うと嬉しくてたまらない。どんな小さいことでも褒めてくれる天国さんが好きで好きで仕方がない。
そんな日々を過ごしているうちに、気が付けば、彼の頬に、髪に、唇に、触れてみたいなんて、邪な気持ちを抱くようになっていた。

(いや、無理だ。俺も天国さんも男なんだし……)

もし女に生まれたなら彼に告白することも難しくなかったんだけどな。こうして同じ事務所にいられること自体がすごく幸運な事なんだから、あまり多くは望まないけど。それでもやっぱりこの思いを抱えたままでいなくてはいけないのは、すこし苦しい。

「花咲」

天国さんの声にはっと顔を上げると至近距離に彼がいて息が止まる。
緊張で硬直する俺に気付いていてか、天国さんはふと微笑んでから新しい指示を出すと俺の肩を叩いた。

「それ終わったら昼だろ。また来いよ」

ふぁいともひゃいとも取れる微妙な返事をどうにか返してから部屋を出た。
顔が熱くてのぼせてしまいそうだ。急に近くに来られると心臓に悪い。あの眼差しに射抜かれると、どうにも口が回らなくなってしまうのだ。
今日も、かっこいいな……。そんなことを思いながらパソコンと向き合っていたらすぐにお昼になってしまった。

弁当を持って部屋にお邪魔すると、彼はすでにコーヒー片手に椅子に深く腰かけて寛いでいた。近くの椅子を引いてきて机の傍に座り、太腿の上で弁当を広げる。
その間に天国さんは俺にとコーヒーをいれてくれた。有難く受け取って一口飲む。
家ではあまりコーヒーを飲む方ではないけれど、天国さんのいれてくれたものはすっきりしていて飲みやすいから気に入っている。
それに彼が俺のためにいれてくれたと思うと一杯のコーヒーもきちんと味わって大切に飲もうという気持ちにさせてくれるのだ。

「お前、家ではコーヒー飲まないんだったか」
「コーヒーメーカーが壊れてからは、ほとんど飲んでないですね」
「そうか……」

顎に手を当ててふうむと考えこんでから天国さんは咳払いを一つして頭をかく。

「なら俺が見繕ってやろうか」
「え、いいんですか」
「ああ。そうだな……うちに来れば豆も何種類かあるし、まず好みを見つけてからだな。コーヒーメーカーを買うにしても、豆に合わせたほうがいいだろ?」

コーヒーに彼ほどのこだわりがある訳ではないので、この庶民的な舌が豆の違いを感じられるか心配だが、彼の家に呼ばれたとあっては頷く他ない。
家に呼んでもらったのはこれが初めてだ。こちらから行きたいなんて言えないので誘ってもらえるのを密かに待ち望んでいた。

天国さんの家だって。どんな部屋だろう。きっとあまり生活感のない清潔な感じなんだろうな。
いや逆に少しだけ汚れててもいい。忙しくて掃除の時間が取れなかったと言われたら喜んで掃除する。ぴかぴかになった部屋の中でちょっと困ったような笑顔で「ありがとう」なんて言われでもしたら、俺は……。

嬉しくてだらしなく緩んだ顔をしたまま仕事の時間を過ごす。うきうきわくわくが止まらなくて鼻歌でも歌いだしてしまいそうだった。
彼の家に行くのは緊張するけれど、それよりも喜びが勝っている。とっとと残っている業務を終わらせてしまおう。

定時になってパソコンの電源を落とす。身支度を整えてそわそわと待っているとコートに身を包んだ天国さんが現れた。
鞄を持って駆け寄るとぽんと頭を撫でられる。急なことに目を丸くしながら彼の方を見上げると、どうしてか嬉しそうにしているように見えた。

「行くか」
「はい」

背を追いながらも心臓がドキドキして落ち着かない。嬉しいような恥ずかしいような、けどやっぱり緊張が勝っているような。

これから天国さんの家に行く。二人きりだ。もしかして、そういう雰囲気になったりするかもしれない。流れによっては思いを伝えたっていい。
そしてそのまま、本当にもしうまく事が進んだなら、一線を越える覚悟はある。やり方は彼を意識し始めた時にすでに調べている。
もしも本気で拒否されたなら素直に引き下がるし、奇跡的に同じベッドで朝を迎えられたなら一夜の過ちとでも言い訳ができる。

どうやってそういう雰囲気まで持っていこうかと考えていると獄さんが急に足を止めた。「うぷ」直前まで気付かず、背中に顔が当たる。慌てて離れるとひどく嫌そうに顔を歪めている彼の姿が目に入った。

「あ、獄さん! いつきさん!」

事務所から出てすぐの所で高い声に名前を呼ばれた。
見覚えのあるメッシュ髪。十四君が、笑顔で手を振って駆け寄ってくる。

「十四、お前なんで……」
「あのですね、ご飯誘いに来たんす!」
「はぁ?」

突然のことに驚く俺たちを置いて十四君は持っていた紙を広げてみせた。この近くの商店街でやっている福引のものだ。

「食事券が当たったんすよ。だから獄さんたちと食べに行こうと思って!」
「食べに行くって…お前な、急に……」
「もちろん自分の奢りっすから、ね。いつきさんも一緒にどうっすか?」

福引に当たったことが嬉しいのか、眩しいぐらいの笑顔を向けられて思わず頷いてしまう。それで気を良くしたのか、「メンバーとよく行く店があるんす!」とぐいぐい俺の手を引っ張るものだから、どうにかついていく。
獄さんは不満気だったが、せっかくの機会でこんなに喜んでいるのに断れないと察したのか、ため息をついてから俺たちの後をついてきた。

予想と反して十四君が連れてきてくれたのは普通のファミレスだった。もうだいぶ辺りも暗くなってきたからか、家族連れが数名いる程度でそこまで混んでいない。
テーブル席に案内されてソファに座ると同時に十四君が人数分のドリンクバーを注文する。

「空却の奴はどうした?」
「今日は来れないって返事来てたっす。残念っすね」
「まぁ急だったからな。それにしてもお前福引なんてやんのか」
「へへ、たまたまスーパーに行ったらチケットをもらったんすよ。当たるとは思いませんでしたけど」

嬉しそうに話す十四君とそれに相槌を打つ天国さんの様子を向かい席から眺める。
そういえば前にもこんなことがあったような気がする。あれは確か天国さんたちがラップチームを結成したばかりの頃だ。
そのお祝いと称したファミレスでの食事会になぜか退社時間が重なったという理由だけで俺も誘われて一緒になって結成を祝った。
天国さんは酒が飲める奴と一緒がよかったんだと俺にアルコールを勧めてきて、俺も彼からのお誘いが嬉しくてたくさん飲んだ。
二人でジョッキを交わし合って、呂律も回らなくなってきた頃に天国さんの肩を借りて店を出たんだ。
十四君がひどく心配してくれていた気がするけど、酔い過ぎて記憶が曖昧だ。

覚えていることと言えば天国さんが俺を支えてくれていたことと、アルコールのせいで少しばかり赤みを増した肌がぼんやりした視界の中で輝いて見えて、首元から滴る汗が妙に美しかったこと。
ディビジョンの代表として堂々とした姿でラップをする天国さんの姿にすでにやられていた俺はそんなすごい人が先輩で、そして介抱までしてくれている事実に、酔いも相まって、かなり興奮していた。
あの時は酔いのせいだろうと思っていたけれど、今思えば彼に対して性的な気持ちを抱いたのはあの時が初めてだったかもしれない。
それまでもちろん憧れの先輩、かっこいい人だとは思っていたけれど、あれほど彼に触れたいと強く願ったのはその時までの自分にはなかった気持ちだ。

「あまぐに、さん……」
「どうした。気分悪いのか」
「いえ、ただ…あまぐにさん、かっこいいなぁって…思って……」

よたよたと千鳥足ながらもどうにか夜道を歩く。どこに向かっているのかさえ定かではないが、彼が傍に居るので心配はないだろうと俺はもう半分眠っているようなふわふわした心地で目を閉じて、彼の体温を感じていた。

「はぁ…酔い過ぎておかしくなってんのか」
「なってな、ぃれすよ……」
「あー、とりあえず俺の家に行くぞ。お前のとこより近いからな」
「あまぐにさんのおうち…ですかぁ……」

そうだ、酔っていたので忘れかけていたがあの時も彼の家に誘われたんだった。
今日はもう仕事が手につかなくなりそうなほど緊張していたけれど、この時はそんなことを思う余裕もなかった。天国さんの家かぁ。コーヒーのいい香りがしそうだな、ぐらいの感覚でいたんだった。

「あまぐにさん、眠いです……」
「おい、こんなところで寝るな。部屋着くまで待て」

目を瞑っているとぺちぺちと軽く頬を叩かれるが、重い瞼は全く持ち上がらない。このまま彼に全てを任せて眠ってしまいたかったが、最後の理性がそれを止め、すんでのところで立っていられている状態だった。
マンション…天国さんの部屋……ねむい…ベッド……天国さん……。言葉の羅列がぐるぐる頭を回って思考がうまくまとまらない。

「あまぐにさん…一緒のベッドで寝てくださいね……。おれのこと、ぎゅってして……」

彼に対する興奮は眠気と酔いの間で綯い交ぜなになって、最終的には彼に触れられていればそれでいいという思いになっていた。

むにゃむにゃと眠い目を擦りながらそう言うと、がくりと体から力が抜けた。支えになっていた天国さんが俺を手放したのだ。そうかと思えば腕を引かれて、なんとか転ばずに済む。うまく立っていることさえままならない俺はそのまま彼の胸に体を預ける形になる。

急にどうしたんだとぽやぽやした頭で彼を見上げると、彼の大きな手が俺の顔に触れた。ひんやりと冷たい。少し乱れた髪が汗ばむ額にまで下りてきていて、それがひどく美しく見える。

「お前、そんな…………思う…………」

なんだ? よく聞こえない。
聞き返そうと口を開くと同時に十四君と空却君が心配して様子を見に来てくれた。そのまま歩いて帰るのも大変だろうという話になって結局四人でタクシーに乗って帰ったんだったか。そのせいで、なにを言っていたのか質問するタイミングを逃してしまった。

なんだかいつもの天国さんと雰囲気が違ったような気がする。けれど酔いの後の頭痛で悩まされていてその日のことについて彼に聞くこと自体忘れていた。
急に思い出したのは、今の状況がそれに近いからだ。
彼の家に行こうとして、いろいろあって結局そうはならない。こんな展開、前の時以外にも何度か経験していた気がする。

「花咲」

運が悪いのかなぁと気落ちしていると天国さんに名前を呼ばれて慌ててテーブルに落としていた視線を上げた。
十四君はドリンクバーに飲み物を取りに行っているようだ。オーダーは気付かぬ間に済んでいて、ほとんど十四君のおすすめをそのまま注文したみたいだ。
「これおいしいんで、食べてみてほしいっす!」とあの子犬のような笑顔で勧められると今まで挑戦したことのないようなメニューにも手を出してみようという気になるのだ。

「悪かったな。今日はうちに来る予定だったのに」
「いえ、全然。むしろ若い子に奢ってもらっちゃって申し訳ないぐらいです」
「ああ、あいつのことは気にすんな。一人で使い切るより、こうして一緒に使っちまったほうが嬉しいだろうから」

たしかに十四君はラップチームのメンバーでも彼のバンドのファンというわけでもない俺のことを、天国さんと一緒に誘ってくれることが多い。天国さんと二人でいる時は必ず一緒に行こうと手を引いてくれるのだ。

それは本当にありがたくて嬉しいんだけれど、それが往々にして天国さんと二人きりでどこかに出かけようとしたり、互いの家に呼ぼうとしている時なので、タイミングが悪いとしか言いようがない。

「また今度誘ってくださいね」
「ああ、そうする」

次に彼が家に誘ってくれるのはいつのなるだろうか。
こちらから誘う勇気があればはやくに彼の家に行くことも実現するだろう。けど俺の性格から考えて遠い未来のことになってしまいそうだな。

▽▲▽

なんて悠長に考えていたが、思いがけずその時はすぐに来てしまった。

「あまぐにさん、のんれますかぁ?」
「お前弱いのに飲みすぎてんじゃねぇよ、ったく」

あれから一週間もしない日の夜、天国さんの抱えていた大きな案件が無事勝訴に終わり、事務所のみんなで飲み会を開いていた。
みんなが緊張感から一時的に解放されて飲んで食べて楽しそうにしている。
初めはまた酔ったら迷惑になるかと思ってあまり呑んでいなかった俺もその雰囲気につられて気分がよくなり、気が付けば天井の照明の形が大きなぼんやりとした光の玉に見えるぐらいに酔っぱらってしまっていた。

今夜の主役である天国さんの傍に行ってビールジョッキを傾けると、悪態をつきながらも自分のジョッキを当ててくれる。カツンと高い音がした。

天国さんに止められてそれ以降は飲まないようにしていたが、それでも変える時にはまた彼の肩を借りないと歩けなくなってしまった。
またひどい醜態をさらすのも恥ずかしいので、近くまで送ると言ってくれた彼からの提案を断って店を出たが、すぐ傍の電柱に顔から突っ込んだので、大人しく彼の助けを借りることになった。

夜の街はそれなりに賑わいがあり、居酒屋やバーの看板のネオンが目に染みるぐらい輝いている。
同じようにおぼつかない足取りの人々の間を縫うように抜けていき、住宅街のほうへ歩いていくと人気は少なくなっていった。

外灯が心もとない明かりを灯している夜道を天国さんに支えられながら進んでいく。
服を隔てて彼の体温を間近で感じて、人がいた時は気付かなかった距離の近さに今更ドキドキしてくる。
こんなに近くて、心臓の音が聞こえないだろうか。酒くさいとか、面倒な奴とか思われたら嫌だな。
こんなことを考えている時点で、きっと俺は面倒な奴なんだろうけど。

どう思われているのか気になって天国さんの横顔を見上げた。
前に見た時と同じ景色だ。いつもより血色のいい顔、少し崩れた前髪、こちらを見下ろす淡い霞のような青白磁の瞳。
一歩進むたびに体が離れて、また触れる。
生ぬるい夜気の中で彼のあたたかさに包まれていると、緊張しているはずなのに眠たくなってくるから不思議だ。

「あまぐにさん、眠たくなってきました」
「おい、またか。ここからじゃうちもそんな近くねぇぞ」
「そうなんですか…? でも、寝るならあまぐにさんの家で寝たいです……」

酔っている時は少しだけ素直になれる。何度も機会はあったのになかなか実現しなかった俺の夢。天国さんの家に入れてもらうこと。
もし叶えることができるなら、恥ずかしさも緊張もふわふわになって、彼の体温を一番近くで感じる今しかない。

「あまぐにさんの部屋……いきたい、です……」

あんなに呑んだのに喉が渇いていた。自分から彼の家に行きたいというのはこれが初めてだ。
天国さん相手に自分からってものはどんなことでも緊張するけれど、きっと人生の中で一番、緊張している。
どんな返事が来るか予想することさえ怖くて、道沿いに続く外灯の先でぽつぽつと輝く住宅街の明かりをぼんやりと眺めていた。
もうここで拒否されて捨て置かれても、逆に受け入れられても、後悔はない。自分から自分の思いを口にできただけ、十分だろう。だからもし断られても潔く身を引こう。

そう決意して一歩踏み出そうとすると突然力が抜けてぐらりと視界が揺れた。
次の瞬間には天国さんの顔が近くに会って、俺の顔はしっかりと彼の両手で掴まれている。あれ、これデジャヴ。

「花咲」
「は、はい……」
「お前、」

薄い唇が次の言葉を紡ごうとしたその時、遠くから「獄さん、いつきさん」と呼ぶ声が聞こえた。パッと手が離れる。声のしたほうに十四君と空却君がいて、こちらに手を振っていた。
少しの間を置いてから天国さんがそちらに向かうのでついていく。この展開も何度か体験しているなと思いながらも、自分のタイミングの悪さを恨む。
落ち込みつつ、二人と合流する。十四君のバンドを見に来た空却君とついさっきまで遊んでいたらしい。
最近の子は結構遅くまで遊ぶんだなと感心するような、心配なような気持ちで話を聞いていると、十四君がこちらに笑顔を向けてくる。

「これから帰るところなんすけど、途中まで一緒に行きましょ」
「っつっても全然うちの場所違うじゃねぇかよ」
「で、でも大きい通りまでは一緒っすよね? いいじゃないすか、行きましょうよ」

空却君の言葉に苦笑しながらも十四君は俺の手を引いて住宅街を抜けた先の大通りまでつれていこうとする。
天国さんがそれでいいなら文句はないがどうだろうかと思って彼の方へ振り返ると、手が伸びてきて十四君と俺を引き離した。
突然のことに体勢を崩した俺はそのまま彼の胸板に飛びこんだ。

「悪いな、これからちょっと用があんだ。タクシー呼んでやるからそれで帰れ」

天国さんの言葉がすぐに理解できず、硬直する。今までこうやって誘われて断ったことはなかったのに。
俺が困惑している間に天国さんは人通りのある道まで出てタクシーを呼んでいる。夜遅いということもあってか、天国さんの奢りだからか、二人はそれ以上言及せずむしろ喜んでタクシーに乗りこんだ。
俺だけがこの状況を理解できずに彼の胸に抱かれたまま固まっている。

「じゃあ、また今度!」
「おう。あんま遅くまで遊び回んなよ」
「また次も奢ってくれよ、銭ゲバ弁護士サン」
「うっせ。じゃあ、またな」

二人を見送ってから天国さんはもう一台タクシーを呼んだ。そこまでしなくても、さっきの出来事のせいで酔いもほとんど醒めてしまっている。気付いていないのかと思って「歩けますよ」と伝えてみると、「いいから乗っとけ」と優しく背を押されて乗車した。

タクシーは俺の知らない道へ入っていって、最後には何階まであるのか、数えようと顔を上げると首が痛くなってしまうような高層マンションに辿り着いた。
星空に届いてしまいそうなマンションを見上げていると、天国さんに手を引かれて中へ入る。エレベーターで上階に上り、部屋の前まで連れていかれる。鞄から取り出したカードキーで扉を開ける。そこで、なんとなくそうなのでは、と思っていたことが俺の中ではっきりと意識された。ここは、天国さんの部屋だ。

急にどうして。まさか俺が酔っぱらって彼の家に行きたいなんて言ったからだろうか。でも十四君からの誘いを断ってまで、俺を家に呼ぶなんてことするだろうか。
ガチャリと玄関は開かれたが、混乱していて足が動かない。天国さんが振り返って、固まったままの俺を見て溜め息をつく。

「おい、どうした。来たかったんだろ」
「は…はい、あの、でも……」

まさかわざわざ時間を取ってくれるなんて思いもよらなくて、どう答えたらいいのか分からずしどろもどろになる。
そんな俺に呆れたのか、彼は頭をかくと傍まで来て眉をひそめた。

「いいから、行くぞ」

ふわり。急に足が地に着かない感覚に目を丸くする。その感覚通りに足は彼の腕に抱え上げられ、宙に浮いていた。天国さんに、持ち上げられている。なんで。

状況をきちんと把握する前に、天国さんは俺を部屋の中へ連れていく。玄関を通り、リビングを抜けて、着いた先は寝室だった。
ベッドに下されて靴を脱がされたかと思うと、ゆっくりと押し倒された。視界に天井と、どこか切羽詰まったような顔をした天国さんが映っている。
その端正な顔がどんどん近付いてくるので、俺は慌てて手を俺と彼の間に突き出す。なにが起こっているのか、意味がわからない。

「あの…っ、ちょ、ちょっと待って……!」
「駄目だ、待たない」
「いや、でもいろいろ急すぎて…っ」
「全然、急じゃねぇだろ。何ヶ月前からお預けくらってると思ってんだ」

手を取られ、その内側に彼の唇が触れる。慣れない感触に爆発が起こったみたいに顔が熱くなった。
酔いが吹っ飛んで、ようやくクリアになってきた視界には熱の籠った視線でこちらを見下ろす天国さんの姿しかない。

「十四たちに誘われると毎回楽しそうにしてたから我慢してたが、もういい加減限界だ」

厚い指が唇をなぞる。触れられた部分から燃えるような体温が伝わってきて彼の言葉に重みを増していく。
そしていま目の前にいるのが、俺妄想からできた幻ではなく、本物の天国獄なのだと伝えてくれる。

「この期に及んで嫌だとか言うなよ。お前のために、こんなに我慢したんだから」

手の甲が俺の頬を愛おしそうに撫でる
。きっと優しい彼ならこんなことを言いつつも嫌がったらやめてくれるのだろうと、そう思えるような触れ方だ。

「…いい、ですよ……。俺のこと、あなたの好きにして……」

その優しい手にすり寄った。ずっとずっと触れてみたくて、そして、触れてほしかった、彼の手だ。

手がもう一度愛おし気に頬に触れると、優しく口付けられる。反射的に閉じていた目を開けると、大好きな霞色の瞳がすぐ近くで俺だけを見つめていた。

「そんなこと言われたら、加減できなくなるだろ。……悪く思うなよ。そのぐらい、お前のこと好きだから」

ああ、そうか。あの時から天国さんも同じような気持ちを抱えていたんだな。
再び近付いてくる彼の唇を受け入れながら目を閉じる。
今までもやもやと悩んでいたこと全てが、俺の中からきれいに消えてなくなっていた。

喉の渇きで目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む日差しがぽかぽかあたたかくてまだ眠っていたかったけれど、見慣れない景色が広がっているので起きるしかなかった。
体を起こそうとして腰の辺りに痛みを感じ、また横になる。ズキズキする部分を撫でながら、そういえばと昨日のことを思い出して枕に顔を埋めた。
恥ずかしさよりも、喜びが勝っている。痛みさえなければ、ここではしゃいでしまいたかった。

「起きたのか、花咲」

ドアの開く音と天国さんの声がして顔を上げる。
ペットボトルを差し出されたのでありがたく頂いた。喉がひりひりして声が本調子ではないけれど喉の渇きはだいぶ癒すことができた。
ほっと息をついて隣に座っている天国さんの方を向くと、頭を下げられた。

「昨日は無理させて悪かった」
「いえ、大丈夫です。その、ありがとうございました」

自分を受け入れてくれたことも、思いが一方通行じゃなかったことも嬉しくて微笑むと、彼は「礼なんて」と申し訳なさそうにする。

「一つ、気になるんですけど」
「なんだ?」
「なんで今まで我慢してたのかなって。だって十四君たちに誘われた時、毎回断らなかったじゃないですか」

そうしたら俺も、彼も、あれほど悩まずに済んだだろう。
そう思って聞いてみると、天国さんはばつの悪そうな顔をして水を一口飲んだ。

「お前と十四たちが仲良くしてんのを邪魔するのも気が引けたからな。それに……」

かっちりとセットされていた髪は俺が触れたのか、完全に崩れてしまっている。
髪を下ろしていてもかっこいいなと思いながら見つめていると、ふいと視線を逸らされてしまった。

「こっちから何度も誘うと、なんか俺ばっかり気があるみたいで……その、恥ずかしいだろ」

ほんのりと頬の辺りが赤く色付いているのが見えて、こちらまで照れてしまう。そして同じような気持ちを抱いていたことが、嬉しくてうれしくて堪らなくなる。
思わずそっぽ向いたままの彼の頬にキスをした。驚いて振り向いた天国さんがまた赤くなっているのが、かわいくて仕方ない。

「今度からは俺もたくさん誘いますね。いつか、うちにも来てほしいですから」
「ああ、期待しておく」

ふと口元を緩ませる彼の肩に寄りかかって目を閉じる。
少し前までは、こんな幸せな朝を迎えられるなんて思いもしていなかった。
事が起きても一夜の過ちだと、酔いのせいだと逃げられることばかり考えていたなんて、嘘みたいだ。

夢のような幸福を少しでも長く感じていたくて、共に迎えた初めての朝の時間を彼に寄り添ってただ静かに過ごしていた。



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