Kiss me before I rise

ピピピ、と目覚ましが朝を教えてくれている。
けれど連日の疲れで瞼はぴくりとも起き上がらず、ましてや体のほうはこのふかふかのベッドから絶対に出ないという強い意志を持って俺を泥沼の眠りへ誘っている。
このままではまた遅刻ぎりぎりになってしまう。社会人としてそんなことは許されないと己を律して生きてきたのに、今の俺がそれを受け入れてしまうのは彼のせいだ。

「いつきさん、起きてます?」

コンコンと扉がノックされるのと同時に彼の声がする。答える気力もなくて唸るような声だけをどうにか返すと、がちゃりと扉が開いた。足音がこちらまで近付いてくる。

「いつきさん、朝っすよ。遅刻しますよ、遅刻」

毛布の上からがくがく揺さぶられてどうにか瞼を押し上げると、相変わらず太陽の擬人化みたいな、爽やかな笑顔を讃えた青年が俺を見下ろしていた。
「一郎君……」寝ぼけ眼でどうにか名前を呼ぶ。

「もう少しぐらい平気じゃないかなぁ……」
「平気じゃないっす。結構ぎりぎりですよ。ほら、はやく顔洗ってきてください」

ぐっと腕を引かれて起き上がる。寝癖でボサボサの髪を乱雑にかき混ぜながら、仕方がないなと言いたげに苦笑する彼のえくぼにさえ目を奪われる。

一郎君と出会ったのは三ヶ月前。
いわゆるブラック企業と呼ばれる勤め先で日に日に憔悴した体をどうにかアパートまで引きずってた頃のことだ。
あのころが人生で一番辛かったんじゃないだろうか。辛すぎて食事の味もわからなくなるほどだった。

早朝の、終電もないような時間に帰宅した。人気のない道を歩いてこのまま毎日こんなことが続くなら死んでしまいたいと心底思っていた。
その時に彼を見かけたんだ。
萬屋ヤマダのことはもちろん知っている。イケブクロに住んでいるのだから当然だが、彼を見たのはあれが初めてだった。
なんでも屋で依頼料を支払えば請け負ってくれる。その噂だけを頼りに気が付いたら俺は萬屋の敷居を跨いでいた。

「あれから三ヶ月かぁ……」

一郎君は家計簿をつけているらしかった。
ドアの音で俺に気付くと「営業時間外なんですが」と申し訳なさそうな顔をした彼のことをたまに思い出す。
若くて健康そうで溌剌とした雰囲気があった。
未成年で仕事をしているのだから大変なこともたくさんあるだろうに、しゃんと背筋を伸ばして生きていた。それだけで涙が出そうだった。

今、俺はこんなになって、ボロボロで、自尊心なんてどこかに捨てて、怒鳴ってくる上司や仕事を押し付けてくる同僚たちの間で擦り減っていっている。
いつかこの身がなくなってしまうのではないかと悪夢に魘されながら逃げることもできずに拒むことさえ面倒になって現状を受け入れている。
自分の哀れな様が彼を前にするとありありと浮かび上がって認めたくなかった事実に押しつぶされそうだった。

気が付けば俺は泣いていた。
止めどなく溢れる涙を初対面の、まだ一言も話を交わしていない彼の前でただ茫然と流し続けて立ち尽くしていた。
彼は驚いて目を丸くしたが、すぐになにかを察してそっと背中を撫でてくれた。その大きな手が丸まった背を撫でる度に救われていくような気がした。

顔を洗ってから着替える。急いでリビングに向かうと食卓には温かな朝食たちが並んでいる。席に着いて手を合わせた。

「いただきます」
「よく噛んでくださいね。いつきさん、いつも早食いするんですから」

うん、と頷いて味噌汁を啜る。
昔は、彼がうちに来てくれるようになる前は、食事の時間さえ惜しかった。
そんなことをしている間にどれだけ業務が進むと思っているんだと叱られたことがあるからかもしれないが、どうしても早く飲み込んでしまう癖がある。それを一郎君に咎められるようになって、気を付けていた。

それに彼と二人で食事するならゆっくり楽しみたい。これは俺のために作ってくれたのだと感じながら味わって食べたい。
そう思える食事の時間があることが嬉しかった。

食事を終えて時計を見る。もう行かなくては。
慌ただしく歯磨きをして髪をてきとうに整えてからネクタイを締めた。
玄関で靴をはいていると後ろから一郎君が見送りに来てくれた。その手にはかわいらしいランチクロスで包まれたお弁当が握られている。

「いつきさん、これ」
「ありがとう」

弁当箱を受け取って鞄に詰める。靴先を床にとんとん、と叩いてから扉を開けようとした俺の背に「いつきさん」と呼ぶ声が聞こえて振り返る。

「待ってください」
「なにか忘れものでもしてた?」

定期かなと鞄の中を探そうとする俺を制止するように彼の手が伸びてくる。
大きな手は緩みかけていたネクタイをきっちりと締め直すと肩へ滑り、そのままぽんぽんと軽く叩いた。

「うん、今日もかっこいい」

ふわりと彼の、いつもは清廉さを感じる目元が穏やかに緩み、とろけるように微笑まれる。
いつもより幼げな表情にぎゅっと心臓を掴まれたような錯覚を覚えて、つい自分の胸元を押さえてしまった。
君の方こそ、かっこいいよ。かっこよくて、かわいいよ。
そう言おうにも慣れない口はうまく回らない。

「いってらっしゃい、いつきさん」
「行ってきます、一郎君」

挨拶を交わして外へ出た。
線路沿いに続く道を早足で進みながら坂を上って、なんとなしに振り返ると部屋のベランダから一郎君が手を振ってくれている。慌てて振り返して、また駅へ歩く。
気になってまた振り向く。彼は相変わらず燦々と降り注ぐ太陽のような、心の奥まで一瞬で温めて包み込んでくれるような笑顔でこちらに手を振っている。また振り返す。
お互いの姿が見えなくなるまで繰り返しているうちに電車が来てしまった。慌ててホームへ走る。なんとか間に合った。

一郎君が俺の部屋に来てくれるようになって二ヶ月が経った。
三ヶ月前、心身ともに疲弊しきっていた俺を救ってくれた彼は、それからずっと「いつきさんが心配なんです」と口癖みたいに繰り返しては連絡を寄こした。

今日はちゃんと飯を食ったのか、嫌な上司に絡まれていないか、洗濯は、掃除は。
彼の話題はいつも俺のことばかりだ。
ならいっそ。そう思って彼に家に来てほしいと伝えてみた。
最初こそ「迷惑になる」と遠慮していたものの、俺が合鍵を持ってくると本気だとわかったのか、彼はそれから俺の部屋に訪れてはどうしても手の回らない家事を手伝ってくれている。
料理ができない俺の代わりに食事を用意してくれるのも、いつもなら床に放っているだけの服を洗濯してくれるのも彼だ。
申し訳ないから俺もできることはしているが、それでも彼の家事スキルは俺の何倍も上で、いつもお世話になってしまっている。

「なにかお礼させてほしいな」
「お礼?」
「だっていつも世話してもらってばかりだから。なんでもいいんだよ。欲しいものとか、食べたいものとか、ない? なんなら、お金だって……」
「金なんていらないっすよ」

依頼していないのに彼はこの部屋に来てくれる。依頼をこなして弟たちの面倒を見る、その僅かな合間の時間に会いに来てくれている。
嬉しいけれど頼ってばかりでは悪いし、彼だって忙しいだろうからと思っていろいろと提案してみたが、結局彼が首を縦に振ることはなかった。

「でもこのままじゃなにもお返しできないよ」
「うーん……あ、そうだ。連絡先教えてください」
「そんなことでいいの?」
「はい。ずっと聞きたかったんで」

そう言って照れくさそうにはにかむものだから俺はもうなにも言えなくなってしまった。

「わー、カラフルですね」

どうにか遅刻せずに出勤して、気が付けばもう昼時だ。
一郎君が作ってくれたお弁当の蓋を開けると同時に隣のデスクにいる女性が声をかけてきた。
きれいに巻かれた茶髪が愛らしいと人気の彼女だが、俺にはいまいちその良さがわからない。かわいい人なんだろうけど、それだけって感じだ。
一郎君のほうが、と思いかけてやめた。比べるのは彼に悪い気がする。

「もしかして愛妻弁当ですか?」
「えっ」

弁当箱には卵焼きやウインナー、プチトマトなど様々なものが入っている。これを一郎君が俺のために作ってくれたのだと思うとそれだけで気持ちがあたたかくなる。
彼の注意通り、早食いにならないように気をつけながらポテトサラダを口に運ぶ。味わって食べているとまた彼女が声をかけてくるので違うと首を振る。

「違うよ、そんなんじゃない」
「本当ですかぁ? 花咲さんって誰が飲みに誘っても断るじゃないですか。だから奥さんでもいるのかな〜って」

違う。飲み会に参加しないのは、その時間を彼と過ごしたいからだ。それにまだお酒の飲めない彼を残して自分だけ楽しもうなんて悪い気がする。彼が成人したら彼と飲みに行く。それ以外には行く意味がないだけだ。

「あの、俺、外で食べてきますね」

ランチクロスで弁当を包み直して席を離れる。「あ、逃げた〜」と彼女の声が聞こえたが振り返らずに外に出た。

ビルで日影ができている場所まで向かってベンチに座る。最近は暑いせいか、外で食事をとっている社員は周りにいなかった。ここなら落ち着いて食べられる。ほっと安堵の息を漏らして、食事を再開した。

少しして携帯がバイブする。ポケットから取り出してみれば、一郎君からトークアプリに連絡が入っていた。

『いつきさん、お疲れ様です。今お昼ですか?』
『そうだよ。お弁当食べてる。いつもありがとうね』
『俺が好きでやってることなんで、気にせずに』

卵焼きを口に含みながら返信する。
食事のときは携帯は置いておきなさい、と彼に怒られたことがあるけれどせっかくの連絡を取り合えるチャンスを逃したくない。
少し待って、すぐに返事がくる。

『味、どうですか』
『全部おいしい。隣の席の子に愛妻弁当だって言われちゃった』
『愛妻っすか(笑)』
『愛妻じゃなくて、愛夫弁当だよって言えばよかった』

卵焼きを飲みこんでミートボールに箸を向かわせて止まる。あれ、返事が来ない。
一郎君は文字を打つのが早いからこちらからの返事のほうが待たせてしまう場合が多いのに今日は珍しく遅れていた。忙しいのだろうか。

『一郎君? 忙しいなら無理しないで』

間があってからデフォルメされたフクロウが照れて顔を翼で押さえているスタンプが送られてくる。ふふ、と笑みが零れた。

普段はこういうことを言うのが恥ずかしくて俺の方から言えないから、せめて文字の中だけでも素直になろうと決めている。
それは彼も同じようだ。いつも照れているときは無理に笑ってごまかそうとするのに。

『あんまりかわいいこと、言わないでもらえます』
『照れちゃった?』
『なんか今日、積極的ですね』

そうかもしれない。理由はわかってる。疲れているんだ。
彼が来てくれるようになったおかげで私生活はだいぶ改善された。
スーパーの値引きシールが貼ってあるお弁当を閉店間際に買って食べ、服は脱ぎ散らかし、風呂はシャワーで済ませる。
そんな生活から解放されて、清潔で人並みの日々を送れるようにはなったけれど、だからって職場が変わることはなく、相変わらずの激務を強いられている。転職を幾度も考えたけれど結局物怖じしてそんなこともできず、今の今までこき使われ続けている。
そんな俺を見かねて一郎君が会いに来てくれるようになったのだから恩がないと言ったら嘘になるが、だからって人をここまで酷使することないのにと泣きたくなる。

携帯の画面を見つめる。この先に一郎君がいる。
そう思うと胸がまた締め付けられるような思いだ。
会いたいな。そう言ったら彼は困ったように笑って受け入れてくれるだろうか。

『今、いつきさん家にいます』
『え、どうしたの?』

いつも俺を見送った後は自宅に戻って依頼をこなしているのに。
珍しいねと言う俺に一郎君はフクロウが涙を流しているスタンプを送ってくる。イラストでも彼が泣いていると思うと胸が痛んだ。

『今夜は会いに行けそうにないんです。ちょっと大きな依頼が入っちゃって』
『そうなんだ』
『だから作り置きしてます。ちゃんと食べてくださいね』

そうか、会えないのか。たった一晩会えないだけなのに、なんだかずっと離れていっちゃうような気になって寂しくなる。最近は毎日会いに来てくれていたからかな。そっちのほうが普通じゃないけど。

十九歳の青年とくたびれた社会人の俺。
毎日朝起こしてもらって一緒に夕飯を食べている。
不思議な関係だなと思うけど、お互いにとってそれが日常になってしまったから不思議に感じるのも久々だった。

ああ、また会いたくなった。会えないと分かった途端に抱きしめたくなった。
今すぐこんなところ抜け出して家に帰りたい。そうして俺のためにと料理してくれている彼を力いっぱい抱きしめて、ありがとうと伝えたい。こんな自分のためにありがとう、と。

『もしかして寂しいんですか』

見透かしたような文字に肩が上下した。もしかして見られているのではと辺りを見回してみるが、誰もいない。太陽だけが眩しいぐらいに輝いてビルでひしめき合うこのオフィス街に明るい昼の日差しを送ってくれている。

最後に残しておいたプチトマトを食べてふたを閉めた。もぐもぐと酸味のあるトマトを咀嚼しながら返事を考える。
ここで間を開けすぎると肯定したと思われてしまう。それでもいいけど、せめて自分の気持ちぐらい自分で伝えたかった。

『さびしい。今すぐ会いたい』

送ってから、あ、やめたらよかったと思う。
こんな子供じみたこと言うような大人だと思われたくないのに。
彼の前ではいつだってかっこよくいたい。初対面で大泣きした俺がそんなこと思うだけ無駄だけれど、それでも彼の中の自分はいつだって良いイメージで在りたかった。

『そういうの、照れます』
『俺も照れてるよ』
『え、見たい』
『恥ずかしいからヤダ』

そんなやりとりをしているうちに昼休みの時間が終わりに近付いていく。
もっとずっと、このままでもいいのに。名残惜しく感じながらも別れの挨拶を交わす。

『仕事、がんばってください』
『一郎君も、がんばってね』
『はい。じゃあ、また明日』

がんばってくださいね。また明日。
それだけで疲れなんてどこかへ行ってしまいそうだ。気持ちばかりが浮足立って、目の前に彼がいないことをこんなにも寂しく思う。
今日は家に帰っても会えない。なんて寂しい夜なんだろう。そう思っただけで泣きそうな自分に苦笑してから席を立った。

今日はいつもより少しだけはやく仕事が終わって帰り道。作り置きしてくれたという夕飯のことを思いながらも足取りは重かった。

帰っても「おかえり」と出迎えてくれる人がいない。それは二ヶ月前まで当たり前で、一人でいる方が心地いいとさえ思っていたのに、今は一人きりの静寂が耐えきれそうにないのだから笑ってしまう。

「ただいま」

案の定、返事はない。薄暗い部屋にはいってスーツを脱ぎ、鞄をソファに投げた。
これが普通だったんだ。今までが華やかだったからその明暗の差に目が眩んでいるだけで、ひどく切なくなるのもそのせいだ。
一人の食事、一人の風呂、一人のベッド。全然寂しくない。悲しくもない。
すごく疲れていたから、本当なら一目だけでも会っておきたかったなんて思ってない。

作っておいてくれた夕飯を食べて食器を洗う。少しの間、隙間を埋めるように騒がしいテレビ番組をみてからシャワーを浴びた。髪をタオルで拭きながらリビングに戻る。扇風機を回して蒸し暑い夜をやり過ごし、このままさっさと眠ってしまおうと寝室に向かおうとしたところで呼び鈴が鳴った。

もしかして、と逸る気持ちで玄関に向かい、チェーンもせずにドアを開ける。
目の前に息を切らした一郎君が立っていて、かっと目頭が熱くなった。

「いつきさん」

汗を拭いながら微笑む彼の元へ飛びつく。腕を背に回してぎゅっと抱きしめると、彼も応えるようにそっと手を腰に回してくれた。

汗のにおいがする。一郎君のにおいだ。
朝会ったはずなのに、こんなに恋しくなるなんて女々しいと笑われるだろうか。いい年した社会人が一人で夜も明かせないのかと、蔑むだろうか。

「いつきさん、風呂上がり? いい香りがする」

まだ濡れている髪に彼の指が通る。その指先の軽やかな動きに胸が高鳴って、赤くなった顔なんて見せられないから返事の代わりに彼の首に顔を埋めた。はは、と笑い声が聞こえる。

「相当疲れてますね? こうやって甘えてくる時はいつもそうだ」

なんでもお見通しなんだ、きっと。これ以上隠しても仕方ないので頷くと、彼は俺を抱き上げて部屋の中に入った。
彼に包まれているとあたたかくて、心地よくて安心する。疲れなんてどこかへ行ってしまって、彼のことしか考えられなくなる。この瞬間が幸せだった。

「なんでチャイム押したの。鍵あるのに」
「いや、もう寝てるかなぁと思って。起こしたら悪いっすから」

こんな時にまで、一郎君は俺を思ってくれている。それが嬉しくて、堪らないんだ。

ソファにゆっくり下される。そのまま彼の太ももに頭を乗せて横になると、顔に流れた髪をとかしてくれた。
そっと優しい手の甲が頬を撫でる。今までだって同じようにされたことはあるのに、まるで初めて触れられたみたいにそこだけ熱を持って、彼の体温や細やかな動きを少しも逃さないように神経が張りつめる。
それに気付いたのか、彼は気を張らなくていいと言いたげに微笑んだ。

「依頼は終わらせてきたの?」
「もちろん。俺はやればできる子ですから、ちゃっちゃと終わらせるなんて簡単っすよ」
「おつかれ様」
「いつきさんこそ。昼みたいに甘えてこられると、俺困っちゃうんですけど」

昼。なんのことだろうと顔を上げて、こっちに視線を落としている彼を見上げる。
目が合った。二色の美しい双眼が俺を映している。心が幸福に満ちていくのがわかる。

「今すぐ会いたいって言ったじゃないですか。だから急いで依頼終わらせてきたんすよ」

すごいでしょ、と彼は微笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。まだ渇き切っていない髪の感触が心地いいのか、何度も頭の形に沿って手を動かして、さらりと髪の間を指でなぞった。
少しくすぐったい。まっすぐに見つめて、そんな愛らしい笑顔で、俺を撫でてくれる彼を見つめ返すのも恥ずかしくて、心の裏側をなぞられたようにくすぐったい。

「寂しかったですか」
「うん」
「一人での晩飯、久しぶりですもんね」
「そうだね。でも、なんていうのかな」

いつからか、君がいるのが当たり前になったこの部屋に一人でいるだけで孤独を感じて辛かった。一人暮らしを始めてすぐの頃はやかましい他人の声を聞かなくていいのだと清々していたのにな。

今は君の優しい声が俺の名を呼んでくれないだけでひどく物悲しくなる。
一緒に夕飯を食べて、くだらない話をたくさんして、たまに一緒に眠ったりして。
そうしてどこかで君を感じないと明日は来ない気さえした。

「この部屋に一郎君がいないだけで、俺は寂しいんだと思う。だって今、会えて嬉しいから。抱きしめられて幸せだったから。だから、きっと……俺の生活には一郎君がいないとダメなんだと思う」

今日は本当に疲れてるのかな。
普段はあまり甘えすぎて子どもっぽくみえないようにと、それなりに自分を律して頑張って背伸びしてきたのに。
でも彼ならこんな俺でも受け入れてくれるような気がして、つい本音が心を飛び出て声になっていた。

少し照れくさくなって視線を外すと同時に彼の頭が俺の腹に落ちてきた。うずくまるように頭を服の上で沈めると「うぅ……」と苦しそうに呻く。慌てて顔を上げた。

「どうしたの、具合悪い?」
「違うんす。へいき、です……」

腹の上にある彼の頭をよしよしと撫でていると、ふと彼が横目でこちらを見た。心配で見つめ返すとふいと逸らされる。彼の小麦色の肌がほんのり色付いていた。

「今日は…どうしてそんなに、俺が喜ぶことばかり…言ってくれるんすか……」

独り言のように微かな囁き。耳まで伝染するみたいに赤くなっていっている。
かわいい。口内で呟いて、彼の艶やかな黒髪を撫でた。

「照れてる?」
「……ん」
「見せて」
「恥ずかしいからヤダ……」

ふふふ、と二人ではにかむ。
二人ともきっと顔は赤いだろうし、心臓は痛いくらいに跳ねてうるさいし、お互いのことを思う気持ちを言葉にすることさえできないだろう。

でもいいか、と思う。
一郎君がはやく帰ってきてくれた。俺のためを思って急いで、走ってきてくれた。
それだけで満たされる。この人と生きていたいと思う。この人の隣に立つ相手に相応しい男であろうと思える。それ以上の幸せなんてない。

「俺のために頑張ってくれてありがとうね、一郎君」
「いいんすよ。このぐらい、全然」
「うん。でも、本当にありがとう。すごく感謝してるってこと、ちゃんと伝えておきたくて」

照れくさかったけれどちゃんと目を見てそう伝えると一郎君はがばっと起き上がって、えへへと嬉しそうに顔を綻ばせる。
俺もようやくまとわりついていた寂しさから解放されて、安堵と共に微笑み返した。

「明日の朝飯、なにがいいっすか」
「…たまには俺が作ろうかな」
「え、マジっすか」
「まぁ、一郎君と比べると下手くそだけど……」
「そんなことないっすよ。俺いつきさんの手料理食べたい」

二人でベッドに入って照明を落とす。薄暗い中で他の誰に聞かれるわけでもないのにこそこそ、秘密の話をしているみたいに顔を寄せ合って小声で話し合う。こつんと触れ合った額が彼の体温を伝えてくれる。
汗臭いだろうからと気にしてシャワーを浴びたばかりの彼は俺と同じシャンプーの匂いがして、同じ場所で一緒に暮らしているんだと思い知らされているようでドキドキする。

「明日も起こしますね。いつきさん、寝ぼすけだから」
「それは…一郎君が起こしてくれるから安心しちゃってるだけ。いつもは一人でも起きれてたんだよ?」

むっとなって言い返すが、彼はいつもの爽やかな笑みのままだ。

「一郎君が俺のこと甘やかすから、大人として駄目になっていっている気がする」
「いいじゃないっすか。俺は駄目ないつきさんも好きですよ」
「いつもの俺は?」
「だいすき」
「ふふ、君ってさ、そういうこと照れずに言うよね」
「いつきさんは?」

毛布の中で彼の手が俺を包む。ぴたりと体をくっつけると、心臓の音まで聞こえてきそうだった。

「好きだよ。どんな一郎君のことも大好き」

その答えに満足したのか、彼はさらに強く俺を抱きしめた。俺も彼を抱き返す。
あたたかい。ずっとこうしていたい。そのために俺はまた頑張れる。あの酷い職場にも軽やかな気持ちで行けるような気がした。

「おやすみ、いつきさん」
「おやすみ、一郎君」

お互いの体温を感じながら目を閉じる。
明日の朝は俺が朝ごはんを作る。なににしようか。少ないレパートリーの中に、彼の好きなものがあるだろうか。なにを食べたって、彼なら「おいしい」と笑ってくれるような気もする。

ちょっと甘えすぎかな。でもこの距離感が心地いい。
だからもう少し。俺の心がもっと強くなって、君に支えられてばかりじゃなくて、少しでも支えられるようになるその日まで、このままの距離で隣にいさせてね。
きっといつか、君に甘えてもらえるような俺になるから。




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