海風に吹かれて、君は

あの日の海のにおいをまだ覚えている。

夏休みの昼下がり、早めの昼食をとって図書館に出かけた僕は予想通りの人の多さに辟易して中庭に出てきていた。
夏休み期間中というのはどの施設も学生でいっぱいになるものだが、とりわけ図書館というものはその被害に遭いやすい。
入館無料で冷房が効いていて雑誌や漫画だってある。金のない学生たちが宿題を終わらせるためになんてそれらしい理由をつけて集まって、ほとんどしないうちに雑談に移り、当初の目的を忘れて騒ぐのにはうってつけの場所だ。

それをわかっていたけれどずっと部屋にいて同じく夏休み中の二郎や仕事に追われる一兄の邪魔になるのも嫌で出てきてしまった。
鞄に教材を詰めこんで木々でできた影に隠れているベンチへ座る。冷房のついた屋内と違って外はまだ蒸し暑く、どこからか聞こえてくる蝉の声が煩わしいぐらい耳についた。けれど節度をなくした騒ぎ声よりはましだ。
水筒に入れた麦茶を一口飲んでから膝の上にノートを広げる。教材も同じようにして目を通していくうちに周囲の音も埋没する意識の中に溶け込んでいった。

その音に気が付いたのはちょうどノートの最後の行に数式を書き写した時だ。なにかを弾くような音が蝉の鳴き声の中に混じっている。
意識して聞かなければ気付けないような小さな音だったが自然音ではないそれは僕の意識を教材から離させるには最適だった。
視線を上げる。向かい側のベンチにいつの間にか人が座っていた。赤いギターを抱えて、膝に乗せた楽譜を見ながら弦を引いている。ヘッドホンからわずかに音が漏れていた。
細身で長身の、今どきの大学生という感じだった。目を引くほどの美人でないが、整った顔つきをしている。茶色く染めた髪が太陽を照り返して明るく透けるような色合いになっていた。
オーバーサイズのスウェットの上に真っ赤なギター、その弦に乗せられた指はときに滑らかにときに迷いながらわずかな音を奏でている。たまに演奏が中断され、楽譜にペンでなにか書きこんでいる。それが終わるとまたギターを弾く。その繰り返しだ。

図書館に入ってくる車の音、鳴りやまない蝉の声や人の話し声の中にその音は馴染んでいた。
指が動く。弦が弾かれると震えるように音が鳴る。思わずじっとその様子を眺めた。自分の周りにはギターを弾く人間がいないので物珍しかったし、なにより彼の雰囲気と合っていた。
これからの将来を憂いているような顔つきの気怠い彼の肩から繋がれたそれは奥底に眠るエネルギーの象徴に思えた。今はどんなに静かに弾いてみせても舞台の上では輝かしい演奏をするのだと、そう言っているようだった。

見入っているうちに彼の指は完全に停止した。ヘッドホンを外して楽譜に熱心になにかを書きこむと別のページと見比べて思案顔をしている。曲を作っているのだろうか。
ふと目が合った。はっとしてノートに視線を落とすこともできずに見つめ返すと彼は硬かった表情を緩め、眉を下げた。

「ごめん、うるさかった?」
「いえ、平気です」
「そっか」

もう一度ごめんねと謝った彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
きちんと返事ができただろうかと焦りながらシャープペンを握り直す。視線と共に下りてきた髪の束を耳にかける。日光を浴びて熱を持った髪はじんわりと湿っていた。

次の日も図書館に来ていた。
今日は中には入らず、すぐに中庭に向かう。昨日と同じ位置のベンチに座ると大きな樹の影に入れて涼しかった。
学生たちは夏から逃げるように屋内へ入りこんでしまっている。陽が傾いて涼しくなってくる頃まで一歩たりとも出たりするものかという意地を感じさせる顔を突き合わせてはくすくすと肩を寄せてなにか話しているのが見えた。
ガラスでできた壁に突き刺すように太陽光が反射して眩しい。わざとらしく余所に視線を逸らしてから僕はまた麦茶を一口飲みこんだ。

少しして、また彼は現れた。ギターケースと小さなバッグを持って向かいのベンチに座る。こちらに会釈してくれた気がするが勘違いだったら嫌なので無視する。
ごそごそと真っ黒なギターケースの中からあのギターが出てくるのを盗み見た。赤いボディに英字が印刷されている。ハイライトのように真っ白な一本線が斜めに引かれて、スリムなボディをよりシャープに見せていた。それを担ぐとまたヘッドホンをして弾き始める。僕はその音に耳を欹てながらノートを捲る。

彼と二度目の言葉を交わしたのは次の日の、太陽が最も輝く時刻だった。
一通りギターを弾き終えた彼はベンチを立って館内へ入っていく。休憩をするのだろうかとその背を無意識に追った。彼の姿が扉の奥に消えてから、どうしてこんなことをしているのかと自分の咄嗟の行動に腹が立ってがむしゃらにペンを走らせる。
別に気にしてなんかいない。彼と僕に接点なんてありはしないのだから。
そう思うが、前のベンチに置かれた楽譜が風で捲られていくたびに彼が戻ってきやしないかと扉のほうに意識が行ってしまう。
少しして彼は両手になにかを持って帰ってきた。自販機でジュースでも買ったのかとばれないように顔まで掲げた教材の隙間から窺っていると不意に彼はこちらのベンチにやってきた。アイスだ、と思う頃にはそれが自分の前にぶら下がっていた。

「バニラとイチゴ、どっちがいい?」
「い、いちご……」

売店で売っている棒付きのアイスキャンディだ。そのイチゴ味を受け取ったまま固まっていると彼は前のベンチに腰掛けてすでにバニラのアイスをかじっている。
慌てて僕も包装を外して口に含んだ。甘酸っぱさが熱くなっていた体に程よく染みわたっていく。溶けないように急いで食べ終えると彼も同じようにして傍にあったゴミ箱に棒を投げ入れた。同じようにしてから頭を下げる。

「あの、ありがとうございました」
「いや、いいよ。ちょっとした仲間意識だから」

言葉の意味がわからず首を傾げると彼はにこやかに笑う。砕けた表情は初めて見たから、少し安堵する。緩やかに下がった目じりが人柄と直結しているようだった。

「君、最近はずっとここで勉強してるよね」
「はい、まぁ……」
「えらいねぇ。高校生?」
「いえ、中学生です。三年」

ギターをケースから出そうとしてた彼はそこで止まってこちらに視線をやる。背筋が伸びる。無意識に足先を揃えていた。

「へぇ、本当に? 背ェ高いね。高校生かと思った」
「あなたは?」
「俺はね、大学四年生。就活がやばそうな二十代前半」

自虐気味な笑みを浮かべながら彼は僕の隣までやってきて膝の上に乗せていた教材を指さす。

「それ見てもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう。懐かしいなぁ……。君がやってるのってさ、宿題かなんか? 今夏休みなんでしょ?」

図書館の中の学生たちに目を向けて彼がそんなことを言うものだから慌てて首を振る。あんな人たちと一緒にしないでくれ。

「夏休みですけど、これは予習です。宿題はもう終わってますから」
「え、予習? 夏休みなのに予習やってるの?」
「休み明けに試験があるので」

そう、だから僕はあんな風に仲間内で騒ぎたいだけで集まっている連中とは違う。「休んでいたから」を言い訳にして試験をないがしろにする奴らとも、もちろん違うのだ。
彼は教材に大雑把に目を通すと肩を竦めた。すごいと褒めているようでも、そこまでしなくてもと呆れているようでもあった。彼はきっと宿題を出されても最後の最後まで手を付けないほうだろうな、となんとなく思った。

「バンドマンなんですか」
「え?」
「ギター弾いてたから」

ベンチに立てかけてあるケースを指さすと彼はそちらを一瞥してから頭をかいて苦笑した。はにかむ、という表現があっている顔だ。

「まぁ、全然本格的なやつじゃないよ。サークル仲間で組んでるだけ」
「どこかでライブとか」
「まぁ、たまには。でもみんな、なんというかな、遊びなんだよ。部活と一緒。本気じゃないし、誰にでもできるようなもん」
「楽器を弾けるだけ、すごいと思います」

本心からの言葉だった。彼がギターを弾いている時の顔は真剣だったし、本気じゃない人間が毎日この暑い中ギターを抱えてきて、遅くまで楽譜と睨みあっているとは思えなかった。
だが彼は意外だと言いたげに目を丸くした後にやっぱりまた苦笑した。もしかして謙遜するときにはそうやって笑ってごまかす癖でもあるのかもしれない。
会話はそこで途切れた。お互いまたそれぞれの集中すべきことへ意識を没頭させる。
時間はすぐに流れていって気が付けばもう夕方だ。ちょうど教材を鞄にしまう頃と彼がギターをケースに入れたタイミングが重なったのでなんとはなしに二人で帰路に着いた。

夕暮れに染まる坂道を二人で歩く。
僕のことを背が高いと言っていたけれど、身長は彼のほうが少しばかり上だった。見上げるような形で隣を歩く彼を眺める。
夕日の下で揺れる髪は襟足が長く、風が通るとさらさらと流れた。その下の瞳はギターを弾いている時のような憂いは見えず、ただまっすぐに緩やかな下り坂を見ている。スウェットの下はきっと細身だ。けれど必要な筋肉はついているように見える。なによりギターの重さなんて全く感じさせない軽い足取りがそう思わせている。

「あ」

坂道を下りている途中で彼は急に立ち止まった。どうしたのかと思っていると、そこに立っているバスの停留所を示す標識を見て、時刻表と書かれた板をつんとつついた。

「俺これで帰るから」
「バスで通ってたんですか」
「そう。家が遠いんだよね。だからバス通学」

通学ではないだろうと言おうとして坂道を上ってくるバスの音で振り返る。彼は運転手に手を上げてICカードをバックから取り出している。
このまま帰ってしまってもよかったが、一応見送ろうかと僕もその場でバスを待った。バスはエンジン音を響かせながら停留所まで来るとドアを開ける。彼は「またね」と笑顔を向けてからバスに乗りこむとこちらに振り返った。

「明日さ、一緒に昼食べよう。約束だよ、三郎くん」

ドアが閉まる。息の抜けるような音と共にバスが発車する。
目の前を過ぎ去っていく彼の姿を追いながら、言われたことがうまく頭に入ってこなくて硬直する。
一緒に昼食べよう、三郎くん。三郎くん?

「あ、教科書……」

向こうは名乗っていない癖に。
坂道を下っていくバスが見えなくなっても、僕は呆然と立ち尽くしていた。

次の日の昼。いつもより早い時間に僕は図書館に来ていた。兄二人には友人と会うからと適当なことを言って昼食はまだとっていない。
館内の食堂はそれなりに賑わっていたがお互いの声が聞こえなくなるほどではない。それにまだ親しくない相手と向き合って食事をするにはちょうどいいBGMだ。これがないと逆に不安になる。
先にガラス壁の傍に席を取って座っていると彼はすぐに僕を見つけてやってきた。奢るからと言うので素直に甘えてきつねうどんを頼む。彼はカツカレーを頼んでいた。

「あなたの名前、教えてください」

大皿に盛られたカツカレーは味よりも量を大切にしている男子高校生が欲しがる代物だ。それを頬張る彼にそう言うと、彼はぱちくりとわざとらしく瞬きする。

「言ってなかったっけ?」
「聞いてません。教えてください」
「はは、そんな必死にならなくても。俺はいつきだよ、いつき」

いつきさん。口内で反芻してようやくうどんを啜った。少し伸びている。
いつきさんは大学生だと言っていたが、大きく口を開けてカレーを食べている姿を見るとなんだか高校生か、はたまた同い年のようにさえ見えた。少し大人びた中学三年生。そんな印象だった。

けれどギターを弾いている時の、水面に泡さえ立たない湖の静寂に似た、沈み込んだ海底のような雰囲気には大人にしかないなにかを感じた。
それは責任感であったり、ときに自責の念にさえ思えた。
名前を聞いて、これでようやく同じ立場になれたような気がする。相手ばかりが自分を知っているなんて一方的な関係は嫌だった。
彼が僕の名を呼ぶなら、僕も彼の名を呼ぶ。
それこそが僕とこの人を繋いでくれるように思った。

「三郎くん、明日ひま?」

食事を終えて食器を片付けているといつきさんは顔を寄せて秘密の話をするみたいにひそひそと声をかけてくる。頷くと彼はぱっと明るく笑って僕を肩を抱いた。いちいち距離感の近い人だなと思うが、それも拒むほど嫌じゃない。
オーデコロンの香りがふわりと辺りに舞って僕を包む。兄や学校の人たちとは違うにおい。甘すぎない、爽やかなシトラスの香りは彼のイメージに合っていた。

「海に行かない?」
「海?」
「そう。サンドイッチ作ってさ、砂浜に座って食べるんだ。海を眺めながらね。どう?」
「いいですけど…遠いところですか?」
「そうだね、二時間はかかる」
「どうしてわざわざそんな遠くに」
「海がみたいんだ」

今思いつきましたって顔でそんなことを言うものだから一人で行けばいいと断ってやろうかと思ったけれどおねがい、おねがいとすり寄ってくるたびに鼻腔をくすぐる香りに目が眩んで、思わず頷いてしまった。
どうかしている。この間会ったばかりの相手と出掛けるなんて。けれどすでに明日の行動計画を考え、どんな格好で行こうかなんて悩んでしまっているのだから、仕方がない。それに彼と海はきっと似合うだろうなんて考えてしまっている奴が断れるわけもないんだから。

いつきさんをバス停まで送って家に帰ると、キッチンのほうから音がする。一兄が夕飯を作っているようだった。僕はそこまで行って「ただいま戻りました」と彼の背に声をかける。一兄はすぐに振り返って笑った。

「おかえり、三郎。楽しかったか?」
「え?」
「友達と遊んできたんだろ」
「あ…ああ、はい、楽しかったです」

友達だなんて軽率に言わなければよかった。彼との関係がどういったものなのか自分でもまだうまくわかっているわけじゃないが、友達と言ってしまった以上は実は年上のバンドマンと一緒にいるのだと簡単に言い出せなくなる。
一兄はそんな僕の悩みなんてお見通しだと言うような笑みのまま、「よかったな」と僕の頭を撫でた。

「あ、あの、それで、明日二人で海に行くんです。なので少し留守にしますけど…」
「ああ、明日か。それなら俺もちょうど依頼がないから家にいるし、気にしなくていいからな。たくさん遊んでこいよ」
「はい。それで、あの……」

言い出しづらくて口をもごつかせる僕に一兄は首を傾げながらも急かさず待ってくれた。ゆっくり深呼吸してから強く拳を握る。

「お、おいしいサンドイッチの作り方を教えてください……!」

▽▲▽

海に行こうと僕を誘ってきた彼は相変わらず重そうなギターケースを背負って駅に来た。いつもどこか緩い服装をしているが、今日はなんだかピシッとしていて違和感がある。どうしたのだと聞くと「遠出するからオシャレした」なんて嘘だか本当だか分からないことを言ってごまかされた。

「あ、もう見えてる」

明るい声に誘われて駅舎の外へ視線を向ける。線路の向こう、住宅街を抜けたところにぽっかりと空いた穴を埋めるように海がみえた。風に乗って潮のにおいがする。
いつきさんが目を閉じて深呼吸する。僕も真似をして肺いっぱいにしょっぱい風を満たした。

「三郎くん、お腹すいた? コンビニでサンドイッチ買おうか」

駅を出て海に向かいながら緩やかな坂道を下る。サーファーと思われる日に焼けた男たちが浮足立ちながら海へ駆けていくのを眺めながらいつきさんがそう聞くので、僕は急いで背負っていたリュックからランチバックを取り出す。一兄に教えてもらった作り方で今朝こしらえてきたものだ。

「あの、僕、作ってきたんです、サンドイッチ」
「え」
「口に合うかどうか分からないけど、でもあの……」

途中でもごもごと口ごもる。頼まれた訳でもないのに余計なことをした自分にも、今朝まで彼の好みかどうかなんてまったく気にしていなかった唐変木な自分にも驚きを隠せない。こんなにも気の回らない男だったろうか。

「三郎くん!」

名前を呼ばれてはっとするとすでに僕の手は彼の大きなそれに掴まれていた。見上げれば爛々と瞳を光らせて破顔するいつきさんと目が合う。ぎゅっと触れ合った手の温度だけ上がって熱い。

「ありがとう! 三郎くんが作ってくれたんだから絶対おいしいよ!」

ぶんぶんと手を上下に振ってからいつきさんの足取りは羽のように軽くなって海へ向かった。
どうしてそんなに自信満々に断言できるのか。それでも彼の言葉に偽りなんてないように思えるのだから不思議だ。
楽しみだなぁと呟く声が聞こえて耳まで熱くなった気がするが、夏の日差しのせいだろう。

海には予想通り人がたくさんいた。海の家とかかれた看板を掲げて賑わっている店が見える。その中央には大きなステージがあって、のど自慢大会なのかアイドルのオーディションなのか分からないイベントが開催されているようだ。

僕たちはその盛り上がりから少し離れたところで砂浜に敷いたビーチマットの上に座っていた。
防波堤でできた影が半分ほど僕たちを覆って日差しから守ってくれる。そこで体育座りしながら波が寄せては引いていく様子を眺めていた。
波のさざめきに合わせてカモメの鳴き声が聞こえる。いつきさんが隣に居なかったら眠ってしまいそうなほどゆっくりと時間が流れていた。

「あの、食べますか」

沈黙が辛くなって僕はランチボックスの中からサンドイッチを一つ、取り出した。フライパンで表面だけ焼いたパンにスクランブルエッグとハム、それにトマトとマヨネーズをはさんだそれは彼の胃袋にもちょうどいいボリュームになっているはずだ。
彼はもう一度礼を言ってそれを受け取るとラップをといてかぶりついた。大きな一口はサンドイッチの三分の一は持っていく。頬がふくらむと同時に彼の表情筋も弛緩したようだった。

「んー、おいしい。あと二十個は食べれる」
「嘘ばっかり」
「本当だよ? これでも大食いには自信がある」

むんっと腕を持ち上げて力拳をみせてくるいつきさんについ笑ってしまう。ギターを運ぶからなのか、確かに筋肉はあるようだが、それは大食いには関係ないだろう。くすくすと肩をすぼめながら僕もサンドイッチを頬張った。

「今日はサプライズがあるよ」

このまま夕暮れになるまで他愛のない話をしながら海を眺めていようと思っていた矢先にそう言われて僕は面食らって隣に座る彼を見た。
にししと悪戯っ子のように笑う顔は幼くて、本当に二十歳を超しているのか疑いたくなる。「なんですか」と聞いてみると、彼は立ち上がってギターケースを背負った。

「これからライブ」
「え、どこで?」
「ここで」

いつきさんが自身の真下の砂浜を指さして笑う。それから僕を誘うように手を引いて海辺のちょうど真ん中に位置したステージの前まで来るとケースからギターを出した。空になったケースを僕に渡してくる。

「今日はおいしいサンドイッチ食べたから、いつもよりいい演奏ができそう」
「ちょ、待ってください、ケース……」
「持ってて。また戻ってくるから」

それだけ言って彼はステージの裏側へ消えてしまった。僕は一人取り残されながら、ステージを見ようと集まる人々の波に揉まれる。避けようとあくせくしている間に集団からはだいぶ離れたところまで来てしまった。

海が近い。波が足元を攫っていく。ステージの全体が見通せる。わっと歓声が上がった。スポットライトが眩しいぐらい輝いて壇上に上がった彼らを照らし出す。その中にいつきさんがいるのを見つけて胸を突かれたような気持ちになる。知らぬうちにギターケースを抱いていた。

海がみたいんだ。
彼はそう言ったけれど、最初から自分たちのライブを見せるつもりだったのかもしれない。そのために僕を誘ったんだ。
ボーカルの人がなにか話している。その終わりを合図に演奏が始まった。

いつきさんがギターを弾いている。
図書館にいるような暗く、道に迷っているような音じゃない。胸の内で音がはじけて、どこかへ飛んでいってしまいそうな爽やかな音がさざ波と同化して僕の鼓膜を揺らしている。
曲の盛り上がりに合わせて観客たちも盛り上がっているのに、どうしてか、僕はその声がどんどん遠くなっていくような錯覚を起こす。サビを歌いあげるボーカルの声も、スティックを激しく動かしているドラムの音も遠くなって、いつしかギターの音だけが聞こえる。

目を閉じる。肺いっぱいに深呼吸する。
彼の音が僕を満たしてくれるように。

いつきさんは観客たちの波が引いた頃にようやく戻ってきた。バンド仲間と話でもしていたのだろう。
首にかけたタオルで額の汗を拭く姿がいつもより輝いて見えるのはきっとぎらぎらと光る太陽のせいだろう。
彼は僕を見つけるとぱっと笑った。太陽よりも眩しい、笑顔だ。

「ただいま」
「お疲れ様です」
「どう、俺の演奏。ちゃんとしたの聞いたの、初めてでしょ?」

どう、と聞かれても困ってしまう。専門的なことは言えないし、だからといって「かっこよかったです」なんて陳腐な言葉を使いたくはない。

「よかったですよ。サンドイッチ分、いい演奏になってました」

いつきさんがギターをしまっている間にそんなことをぐるぐると考えて結局口から出たのは、どうしようもない、照れ隠しだった。

日が暮れて夜が近付いていた。僕たちは乗客の少ない電車に乗って帰宅する。その間に彼はこっそりと「父親が医者なんだ」と教えてくれた。

「お医者さんですか」
「そう。それも結構有名なんだよ、地元では。だから余計にバンドなんてやりづらくてね」

あたたかな夕日が心地よく微睡む僕たちを照らしている。いつきさんは床に下したギターケースを撫でながら微笑んだ。

「跡を継げってうるさいんだ。だから練習も家じゃできないし、外でやってると患者さんに見つかって告げ口される」

告げ口。どんな内容かわからないが、よくないものだというのは彼の表情から見てとれた。
微笑んでいるはずなのにどこか暗い瞳が揺れるつり革の影を見下ろしている。

「イケブクロまで遠出するのは結構大変だよ。でも俺はバンド、続けたいから」

そういえば彼はバスで図書館まで来ていた。親にも周りの人々にも見つからない場所を求めて逃げてきたのだと彼は自嘲気味に笑うが、僕からすれば見ず知らずの土地に自分のこれからのために赴こうという気持ちは決して逃げなんかではないような気がした。

「三郎くんもそういうのあるんでしょ?」
「え?」
「しがらみというか、悩みっていうのかな……。図書館にいた時の君はそういう感じだったよ。だから俺は仲間がいるって思ったんだ」
「……それで、アイスキャンディ?」
「うん。まぁ、話しかけるきっかけになれば何でもよかったんだけどね」

僕に悩みなんてない、とは言い切れなかった。だって僕はいつきさんのことを羨ましいと思っていたから。自分の信念があって、熱くなれるものがあって、周囲の反対を押し切ってでもやりとげたいと思うものがある。それが羨ましかった。

僕の熱くなれるものって一体なんだろう。
勉強は、違う。もちろん努力はするけれどそこに人生を賭けるほどの情熱はない。なら他になにが?
これが僕なんだって胸を張って言えるものって、なんだろう。

電車を降りていつきさんと別れた後も、彼のギターの音が胸の内に木霊する。本当に好きじゃなきゃ出せない、輝くようなあの音が。
星空を見上げる。彼の音がこの星の数よりもっと多くの人に届く日がいつかくるんだろうか。そしてその中に自分はいるんだろうか。そうだったら嬉しいな。

とりとめのない思考の中家に帰るとちょうど二郎が二階から下りてきている所だった。慌てているのか階段を踏み外しそうになっている。

「ただいま」

一応声をかけておこうと靴を脱ぎながら投げやりにそう言うと二郎は一直線に僕のほうへ向かってきてガバッと肩を掴んだ。突然のことに背筋が伸びる。

「な、なにするん」
「兄ちゃんがチーム組むって!」
「え……」
「俺はもちろんメンバーに立候補する! お前は?」

興奮気味にこちらを見た二郎にゆるく頷くと、彼は「ならライバルだな!」と言い残して部屋に戻ってしまった。
残された僕は静かになったリビングで呆然と白い天井を見上げていた。ふといつきさんの顔が過ぎる。強く拳を握った。

「僕の熱くなれるもの」

それが今、突然目の前に現れたのだ。
絶対に掴み取ってやる。
そして彼のように眩く、輝くのだ。

▽▲▽

いつきさん。
気付くと、僕は走り出していた。夏も終わりに近付き、秋の気配を感じる坂道を必死に駆けていた。
いつきさん。
もう一度彼の名前を呼んで必死にアスファルトを蹴り上げる。あれほどうるさかった蝉の鳴き声はもうほとんど聞こえなくなって、冷たい風に身震いしそうになるほど夏は急に姿を消し始めていた。

「休みが明けたら兄ちゃんの手伝いをするんだから家にいろよ、三郎」

二郎の言葉を思い出す度癪に触って、その度に息が上がる。
わかってる。もう図書館に通っている時間はない。その分を家族を支える為に使うのは嫌じゃない。
それでも今日だけは会っておきたい。夏休み最後のこの日にだけは。

坂道を上るとようやくバス停が見えてきた。もうすでにバスが停まっている。そこから数人が下りてきて各々歩き出している。見知った背中がその中にいた。手を伸ばす。指先がかすれた。

「三郎くん」

背には届いていなかったはずなのに彼は自然と後ろに振り返って僕を見た。足を止めると汗が噴き出してきそうだった。彼は涼しげな顔で僕の頬を伝う汗をハンカチで拭いた。

「あの、いつきさん」

僕の声は上擦っていた。走ってきたせいで鼓動が速くなって、そのせいで浮足立っているように思えたが、結局は目の前の彼に会えたことを喜んでいるだけのようにも感じられた。

「僕、見つけたんです。いつきさんみたいに、夢中になれるもの」

バスが僕たちを残して発車する。エンジン音はすぐに遠のいて、僕たちだけが停留所の前で立っていた。

「そう、よかった。実はね、俺もなんだ」
「いつきさんも?」
「あのね、親父、来てたってさ、この間のライブ」

言葉を失う。あの観衆の中にそんな人がいたかどうか思い出そうとするが無理だった。いつきさんがはにかんで頭をかく。その表情が本当に嬉しそうで、僕まで同じ気持ちになる。

「じゃぁ、メジャーデビューってことですか?」
「そうなるかなぁ。なんだかまだ実感わかないけどね。なんか音楽プロデューサーって人から声かけてもらってて。事務所がどうのこうのってさ」
「すごい。よかったですね!」

喜ばしいことのはずなのに彼は浮かない顔をしている。どうしたのだろうと思っていると「三郎くんは?」と聞かれたので兄と一緒にラップチームを組むのだと伝えると彼はようやく破顔して「本当に、よかったね」と肩を叩いてくれた。

「ってことは、イケブクロの代表?」
「いえ、まだ予選があるので。でも絶対に代表になってみせます」
「三郎くんならきっとなれるよ」
「いつきさんも、きっと有名になれますよ」

お互いを褒め合っているはずなのになんだか空しい。これからのことを夢見たいはずなのに重い現実がのしかかって離れてくれない。
僕は兄の傍に居なくてはいけないから、もうここには来れない。いつきさんもバンド仲間たちと練習をするだろうし、わざわざこんな遠くまで来る必要はなくなってしまった。
僕たちがあの図書館の中庭で出会うことは、もうない。

走ったせいで身体中が暑かった。日影か店の中にでも逃げてしまいたい。けれどそうしたら彼とはもう二度と会えなくなるのだとわかっている。わかっているのに、僕たちはどうしても別れを切り出せない。

「でもさ」不意にいつきさんが口を開く。
秋の始まりを告げる日差しは穏やかに彼を照らし、薄茶の髪を飴色に光らせる。

「でも、それならさ、お互いのことをどこかで聞くこともあるかもね」
「いつきさんのバンドの曲がラジオで流れるかもしれませんね」
「三郎くんのラップが全国中継されることもあるかも」
「あるかな」
「きっと、あるよ」

いつきさんがそう言うと、本当なんだって思える。
そう伝えると彼は笑って僕の頭を撫でた。その手の感触を忘れないように目を瞑る。風に乗ってオーデコロンの香りがする。深呼吸。忘れてしまわないように、肺いっぱい。どこからか海のにおいがした。

バスが坂道を上ってくる。いつきさんがそちらに視線をやっている。彼も僕と同じように別れを告げるためだけにここに来たに違いなかった。いつもは肩にあるはずのギターがない。バスが停留所に停まって重々しい音を立てながらドアを開く。

「またね、三郎くん」

手が頭から離れた。バスのドアが閉まっていつきさんの姿が隠れていく。僕はそのわずかな隙間に押し込むように声を張り上げた。

「いつかまた一緒に海に行きましょう。またサンドイッチを作りますから」

ドアの向こうへ思わず手を伸ばすが、空気の抜ける音と共にバスは動き出してしまう。
いつきさん。
名前を呼ぶ。いつきさん。
次に彼を呼べるようになるのはいつだろう。いつかまたその背に向かって手を伸ばせる時は来るだろう。いつきさん、いつきさん。

夏が終わる。あの忌々しいほどに眩かった太陽はいつしか身を潜めて、涼やかな風と秋の気配を連れてくる。
僕はバスを見送ってから踵を返して坂道を下った。足取りが軽くなる。走り出した気分だった。

夏が終わる。その次にはきっと僕たちの季節が廻ってくる。
そうでしょう、いつきさん。
きっとそうだよって笑ってくれた気がした。




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