「おがた〜、めし〜」
リビングのほうから間延びした声が聞こえてきてPCに向かっていた手を止めた。
相変わらず気の抜けた話し方をする奴だと思いながら部屋を出ると醤油の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。仕事を片付けているうちに夜になっていたようだ。
リビングへの扉を開けるとキッチンのほうから花咲が顔を出した。
誕生日の日に買ってやった黄緑のエプロンをつけている。ポケットについた猫の刺繍から一本だけほつれた糸がひげのように伸びていた。
プレゼントだと手渡したときに「わぁ、尾形くん冗談うまいね」と笑った顔は今でもたまに思い出す。ポケットの猫に名前までつけて、すっかり愛用しているくせに。
食卓には彼が作ってくれた料理たちが並んでいる。キッチンを背にして座るのが彼で、俺はその向かい側だ。椅子に腰かけながら、いつしかできたそんな決まりを律儀に守っている自分に笑いたくなる。
そういえばこうやって食事を共にするようになってそろそろ一年が経つ頃だ。
前は一人でいる方が静かで好きだったが、今では彼が動くときの服がこすれる音やまな板の上で軽やかに食材を切っていく包丁のリズミカルな音がないとなんだか空しくなる。
「食欲ある? 熱中症でばててないだろうな〜」
「んなやわじゃねぇよ」
「本当かなぁ。尾形は暑いの苦手そうなのに」
夏の日差しは夜になればだいぶ治まったが、それでも部屋を満たす空気は滲んでいて料理を終えた彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。エアコンの温度を下げるか聞いてみたが、彼は首を横に振ってエプロンを脱いだ。
「んじゃ、いただきます」
「いただきます」
食事の前に手を合わせる習慣はばあちゃん家にいた頃はしていたが、一人になってからは忘れていた。けれど花咲がこの家に来てからも毎回そうするのでいつの間にか癖のように手を合わせていた。
互いの箸が動く音と咀嚼音だけが静かなリビングにひっそりと響いた。テレビをつける習慣がないのでお互いの音がよく聞こえる。
それ以外にもエアコンの風がこすれるカーテンの音、テーブルや椅子が軋む音、この部屋以外のどこかから聞こえる音。
互いの音以外にも案外たくさんの音がして、それらは小さなひそめきのように俺たちを包んでいる。そこに自分が出す音が重なると、それは生活の一部になって俺の中にすんなり入ってくる。
花咲もそんな音のひとつだった。
「尾形はさ、もう就職決まってんの?」
大学にいた頃、花咲はなにかと俺に絡んだ。
最初は面倒で適当な対応をしていたが、それが四年にも渡るとついに無視はできなくなって、そのままずるずると友人とも呼べないが他人でもないような関係が続いていた。
生徒たちの甲高い声が木霊するエントランスホールで彼の、まだ少年の色を残したような大人になりきれていない幼い声は耳についた。
他の仲間たちと話す時と同じ気さくな表情と馴れ馴れしさでこちらの肩に身をもたれながら寄ってこられると避けようという気も失せる。どうせ追い返したところでのこのこ戻ってくるのだ。
「ああ、まぁな」
「へぇ、どこ? ここから近いの?」
「近いってほどでもねぇな。駅三つ分先」
へぇとかほぉとか阿呆らしい感嘆符を口から漏らしながら花咲は俺の後をついてくる。仕方がないので就職先である企業のホームページをみせてやると「あ、知ってる! すげー有名なとこじゃん!」とはしゃいだ。
他人の就職先でよくそこまで喜べるなと思うほど、彼は俺のことにまで一喜一憂した。レポートの出来や試験の結果まで俺と一緒になって頭を抱えてみたり、喜んで跳ねてみたりと忙しい。その分こちらに辛いことがあると向こうまで泣きそうな顔をするものだから、どう慰めていいものか何日も悩む破目になった。
「お前はどうなんだ。どこか決まったのか」
「一応内定はもらってるけど〜…断るかもしれない?」
花咲は苦笑しながら自分の内定先を教えてくれた。聞いたことのない小さな会社だったが、彼ならどこででもうまくやっていけそうな気がして、伝えはしなかったが内心喜んでいた。
それなのに断るかもと曖昧な表現をする彼を問い詰めると家から離れていて通勤に時間がとられるからと白状した。引っ越して一人で暮らすというのは親が許していないらしい。
それならと思ってその日のうちに物件を調べて自分と彼の仕事先の辺りにある部屋を探した。
少しでも彼のほうに近い場所を探した結果、花咲は徒歩十五分、俺は駅六つ分で通勤できる部屋を見つけたのでそこに住むことにした。
そう伝えた時の花咲の顔といったら、天地がひっくり返ったんじゃないかというほどの衝撃を受けていた。
「え、でも…尾形のほうは遠くなっちゃうじゃんか」
「俺はいいんだよ、別に。何駅でもそんなに変わらない」
「いやいやいや……それに俺、引越しは……」
「一人で住むのが禁止なんだろ。だったら二人で住めばいいだけじゃねぇか」
自分でも自然とその案が出てきたことが不思議だった。誰かと一緒に住むなんてもう充分だと思っていたし、一人が好きなはずだ。
それなのにと思うものの、鍵を受け取った彼の顔は柔和に溶けていく様をみるのは悪い気がしなくて、崩れてもいない髪を撫でつけた。
「これうまい」
「ん、それ? 翡翠煮な、うまいよな」
箸で掴むだけも柔らかさがわかる茄子の煮物を飲みこんで茶を呷った。花咲も箸を置き、ひと息ついてから手を合わせている。「ごちそうさまでした」と図らずとも声が重なった。
食後に温かいほうじ茶を淹れて、花咲の作った夏ミカンのゼリー片手に二人でソファに座る。
本を読んだり、スマホをみたりと一人きりでもできるようなことを、互いの肩が触れ合いそうな狭いソファでわざとやっている。この家に来た時からの日課だ。
ゼリーを食べ終えると花咲はコップに息を吹きかけながら必死に料理の動画を見ていた。そうやってレパートリーを増やしているのだと言っていたことを思い出して画面を覗いてみたが、自分にはあまり興味のないことだ。それに細かい調味料の種類などはよくわからない。
それでも彼の肩口に頭を乗せて同じ画面を見つめていると穏やかに時間が流れていく気がして心地よかった。
料理の動画が終わると次はケーキ作りのものに変わる。甘いもの好きの花咲は今にも食べてしまいたいと言いたげな顔で食い入るように画面をみている。
俺はもうそちらに興味もなくなって静かに目を閉じた。肩から彼の体温を感じ、かすかに聞こえる呼吸音に身を委ねていると不意に顎下に手が伸びてきて数回撫でられる。
「……なんだ」
「寝るならベッド行きな?」
「まだ寝ない……」
「え〜、またベッドに連れていくの嫌だよ、俺。尾形重いんだもん」
つんと唇を尖らせる花咲の腹を肘でつついてやるとくすぐったそうに身を捩ってくすくす笑うものだから、俺はまたいつもみたいに彼の傍を離れられなくなって、気付いた時には眠りに落ちているのだった。
[ごめん、今日遅くなりそう!]
次の日の夜。
昨日の動画で見たケーキを焼くんだと張り切っていた花咲から連絡が入っていたことに気が付いて降り立ったホームから動けなくなる。
スマホを持ったまま直立していたが電車から降りてきた人混みに押されてどうにか改札を抜けた。
街はまだまだ夜を照らし出す光で溢れて、所々昼間よりも激しく煌めく照明に目が染みた。
(今日はあいつの飯を食えないのか)
忙しいのなら仕方がないと納得しているはずなのに落胆のため息が漏れる。
マンションまでの道のりが遠く感じてより気分が落ち込んだ。
会社から帰って来るといつも部屋には明かりが灯っていて、中ではあのエプロンをした花咲が夕飯を作って待っていてくれた。
自分のほうが職場から近いのだからと言う彼に食事に関しては任せきりになっているので、それはある意味で当たり前のことなのだが、久しく食べた自分以外の料理はどれもおいしくて、あたたかくて、食べ進める度に心が軽くなっていくようだった。
学食や店でだって食事はするし、それだって他人の料理じゃないかと思うが、花咲が作ってくれるものは格別においしくて、扉を開くたびに腹の奥をくすぐるような香りに浮足立った。それに彼は必ず玄関まで来て帰ってきた俺のことを「おかえり」と迎え入れた。
その生活が心地よくて、気付けば一人の頃になんて戻りたくないとさえ思っている自分がいた。
だから、その反動がこういうときに来るんだ。
街中を行きかうサラリーマンやカップルの間を抜けてマンションへ入り、部屋までの階段を上がる。意味もなく緩慢になる体をどうにか動かして玄関を開けた。
もちろん電気はついていない。「おかえり」と笑ってくれる相手も。
スイッチを押して電気をつけると物悲しい廊下と静寂に包まれたリビングが見えて、また心に黒い影がかかったような気分になった。
どうにか靴を脱いでソファに雪崩れこむ。食事をとろうという気分にもなれずにそのままでいると不意にスマホが振動した。
[俺がいなくてもちゃんと飯食えよ、尾形]
映し出された文字にふっと笑みが零れる。
「エスパーかよ」
適当なスタンプを送って身を起こす。
仕方がないが、今日は自分で飯を作らなくてはいけないらしい。冷蔵庫にはそれなりに食材が入っている。あまりレパートリーが多いわけではないが、壊滅的に料理が下手というわけでもないので一晩ぐらい過ごせそうだ。
玉ねぎやズッキーニを適当な大きさに切ってからごま油を敷いたフライパンに投げ入れた。そこに白米やら醤油やらをさじ加減で加えていけば大味の炒飯ができあがる。一応花咲の分も作ってカバーをかけておいてテーブルに運んだ。
「……いただきます」
目の前に花咲はいないはずなのに、なんとなくそうしないと食事を初めてはいけないような気になって手を合わせた。まったくこんな風に人の真似が板についてしまうとは困ったもんだ。
炒飯を食べ進めている最中にそういえばと昨日の彼のことを思い出す。ケーキを作りたいんだと輝く瞳で画面を見つめていた彼のことを。
スマホで作り方を調べてみると初心者向けのものもあるようだった。レシピの中からいくつか目星をつけてから食事を終えた。
夏の夜は蒸しているはずなのに冷たい風が吹くから服装に困る。自分の作った雑な炒飯を食べ終えてから、俺はまた街の方へ歩いていた。半袖でいると少し肌寒いのに、上になにか羽織ると蒸し暑くてかなわない。
面倒な季節だと誰に文句を言えるわけでもないので肩を落としながら歩いているとどこかからみりんの甘い匂いが漂ってくる。それはマンション街からは少し外れた住宅地のほうからだ。テレビの騒がしい音と笑い声まで聞こえてくる。
学校や仕事から解放されて楽しそうにしている雰囲気がどの家からも感じられて、なにが悪いわけでもないのに今日はその音さえ煩わしくて急いで住宅街を抜けた。
駅前にある商業スーパーにはそれなりに客がいた。この暑い中腕を組んでいるカップルや値引きシールのついた商品を見比べている主婦、お菓子コーナーではしゃぐ子ども。それぞれがこの自由な時間を楽しもうと様々な商品に手を伸ばしている。
俺はその中を大股で歩いて製菓コーナーに向かった。その中からケーキ作りに必要なものをカゴへ放り投げて次に成果コーナーで苺のパックを買って店を後にした。
一体なんだと思う。いつもなら気にもならないような音や匂い、人の動きに酷く反応してしまう自分に嫌気がさす。そしてそれらを心の奥底では羨ましいと思っていることにも。
たった一晩だ。花咲がいない生活なんて前は当たり前だったんだから。「おかえり」と出迎えてくれる相手がいないことにも、あたたかい料理を自分のために作ってくれる相手がいないことにも、慣れているはずだろう。
ずっと一緒にいたいだなんてそんな子供じみたこと、思ってない。
二人でケーキを食べれたらきっと幸せだろうなんて、思ってない。
(それなのに、なんでわざわざこんなもの買ってんだ……)
キッチンの上にはスーパーで買ってきた材料が置かれている。全て揃えたせいでそれなりに金がかかってしまった。前髪をかき上げて溜め息を吐く。買ってしまったんだから仕方ない。作るしかないんだ。
(それに……)
ボウルを棚から取り出しながら、いつもこれを使って様々なものを作ってくれる彼のことを思う。
俺がケーキを作ったなんて知ったらどんな顔をするだろう。一緒に暮らそうと鍵を渡したときのような、優しい笑顔になるのだろうか。
それなら自分らしくないことをするのも悪くない。
扉のフックにかけてあるエプロンを身につける。久しぶりの感覚に心が揺れた。
彼にエプロンを渡した次の俺の誕生日、彼は色違いのそれを俺に送りつけた。
水色のエプロンには柴犬の刺繍がされている。その少し間抜けな顔はどこか彼に似ていた。
「冗談がうまいな、花咲くん?」
「あ、それ覚えてたんだ? いや、ごめんって。尾形が俺のためにプレゼント選んでくれると思ってなかったからさぁ……。嬉しかったよ? ほんとだよ?」
誕生日ケーキ作ったんだよ、だから許してね?
そう言って笑う彼を前にすると自分がどんな奴だと思われていたかなんて気にならなくなって、年齢分のロウソクを立てている彼の頭を乱雑に撫でるしか、この気持ちを表現できなかった。
ありがとうなんて言うのはまだ少し恥ずかしい。
「誕生日おめでとう」
ロウソクの輝きだけが揺らめく部屋で彼は俺に溢れんばかりの笑顔を向けてくる。
俺はそれに答える言葉を見つけられずに火を吹き消した。
あの日のショートケーキ。生クリームに苺が乗っていた。あれほどおいしいケーキは食べたことがない。
あの味を目指して俺だけで今から作っていくんだ。意気込むとともにグラニュー糖の封を切った。
「……なんでなんだ…………」
オーブンの前には潰れたスポンジみたいにへにゃりと崩れたケーキのようなものができあがっている。いくらクリームで着飾ったところでこれではケーキとは呼べないだろう。
どうしてこうなった。おかしいだろ、手順見てやってんだぞ。このレシピがまずかったのか?
初めてのケーキ作りは見事に失敗した。味見をする気にもなれなくてゴミ箱に捨てる。
時計はそろそろ九時を回りそうだが、花咲が帰ってくる気配はない。連絡もないので仕事に追われているのだろう。
そのことを思うと一度の失敗でへこたれている場合ではないと気持ちが奮い立つ。
絶対にあいつにケーキを食べさせてやる。そう決意して再びゴムべらを握り直した。
五度目のケーキ作りに失敗してついにソファに逃げた。
深く腰掛けるともう二時間も時間が経っていることに気が付く。ずっと立っていたせいで腰が痛んだ。
「才能がないのか……」
白い天井を見上げながらため息をついて煙草を探したが、料理の時は吸うなと彼に言われていたことを思い出して我慢する。
自分で作るときは例外のような気もしたが、臭いがつくことを気にしているようだったので素直にポケットに戻した。
ケーキ作りはあれから様々な失敗作を生んだ。
スポンジが硬すぎてたべれたものじゃないもの、きれいに焼けたはずなのにぺしゃんこになってしまったもの、スポンジはできたのに生クリームがうまく泡立たなかったものまで、その失敗の模様は多岐にわたる。
そのせいなのかキッチンがだいぶ汚れてしまった。というのもクリームを泡立てる時に泡だて器が思いきりボウルから離れてしまってクリームがまき散ったり、空気を変えようと窓を開けたせいで薄力粉が舞ったりしたのだ。
もうキッチンのほうに向き直りたくもないほどの惨状だが、それを片付けてとっととケーキを作り上げなくてはいけないということはわかっている。いくら彼のためと言っても彼の持ち場を汚したままにはできない。
しかし、と顔を降ろしてきていつの間にか粉っぽくなっているエプロンを見下ろす。自分の手も同じようになっていた。
どうしてこんなに頑張るんだ。夕飯は作っておいたし、彼から頼まれたわけでもないのに。どうしてこんなにむきになって慣れてもいないことをしているんだ。
全部あいつが悪いんだ。俺をこんな風にしたあいつが。
茨城から北海道の大学に進学して一人暮らしを始めた。自分で全てを決める生活。その日の食べるものも眠る時間も俺の自由だった。それが心地よかったし、誰にも邪魔されないというのは気楽だった。
それを変えてしまったのがあいつだ。
あの男は入学と同時に俺に絡んできては、眠そうにしていれば「ちゃんと寝ないと」とかコンビニ弁当を食べれば「たまには自分で」とか、まるでしつけ役だ。
自炊をする気のなかった俺に無理に料理を教えて、それでも面倒でコンビニ弁当を食べる俺に弁当を作り出したのも、いつも寝付けなくて睡眠不足気味の俺が心配だからと部屋まで押しかけて一緒に寝ればいいと布団を持ってきたのも全部あいつだ。
そうしてたった四年で俺の生活も生き方さえも簡単にひっくり返して、いつの間にか隣にいるのが当たり前になって、その肩に頭を乗せるのがお気に入りになった。
夜の静寂のなか二人でそうして身を寄せ合って過ごす時間がないと毎日を過ごせなくなったのも、全部あいつのせいなんだ。
だから今度は俺の番だ。俺なしでは生きていけないようにしてやるんだ。
そのためにケーキを焼く。大好きな甘いものを作ってくれる相手が傍に居ればきっと離れがたくなるはずだ。俺にできることはそのぐらいだ。他に思いつかないのだから、やるしかない。
誕生日ケーキをもらって初めて嬉しいと思えた、誕生日が来ることを初めて喜んだあの日と同じ気持ちを味わってもらう。そうすればきっと笑ってくれるだろう。
俺のしたことで彼が笑って、喜んでくれるのならそれでいいんだ。それが毎日俺を迎え入れてくれる彼へのささやかな恩返しになる。
ソファから立ち上がって体を天に伸ばしてから深呼吸する。もう一度やってみよう。次はきっとうまくいく気がした。
「ふわぁ……」
欠伸を噛み殺してベランダに出る。外はもう真っ暗でビルやマンションの明かりだけが煌々と照っていた。冊子に腕を乗せ、そこに上体を預ける。冷たい夜風が髪をなびかせた。しばらくしてポケットから煙草を取り出す。一本取り出して口に咥えながらライターを探していると人通りのない道路を歩いてくる花咲の姿が見えてぴたと動きを止めた。
疲れたと顔に書いてあるようだった。眉と肩を下げとぼとぼと歩いている姿をじっと見下ろす。無意識に冊子を強く握っていた。
ふと、星を見上げるように顔を上げた花咲と目が合う。あ、と思ううちに彼は暗かった表情をぱっといつもの朗らかなものに変えると、先程までの疲労困憊な様子など感じさせないぐらい元気に手を振ってくる。いつもなら応えてやらないが今晩は特別だからと自分に言い訳して手を振り返した。
花咲がマンションへ走ってくる。きっとすぐに階段を駆け上がってくるだろう。慌てて煙草を戻してベランダを後にした。
「残業地獄から帰ってきたよ〜」
玄関から相変わらず気の抜けた声が響いてくる。そこへ向かえば、彼は靴を脱ぎながら嬉しそうににこにこ笑っていた。
「なんでそんな笑ってんだ?」
「だって尾形、そのエプロン! 俺があげたやつじゃん」
恥かしいときはそうするのか、彼ははにかみながら頭をかいた。俺がエプロンをつける時は彼がいない時と決まっているので、この姿を見るのは初めてらしかった。
えへえへと口元を緩ませながらリビングに進もうとする花咲の手を咄嗟に握る。驚いて振り返った彼の姿に胸がきゅっとなった。
「おかえり、花咲」
「ただいま、尾形」
こうして言い合えただけでも満たされている。こんなに孤独を嫌っていたなんて知らなかった。こんなに自分以外の誰かのために必死になれるなんて知らなかった。
「飯は?」
「食べてない。あー、はらへったぁ……」
リビングに入るなり、花咲は動きを止めた。後ろからその背を眺めていると勢いよく振り向かれてビクッと肩が上下する。爛々と輝く瞳が俺を見上げていた。
「尾形、飯作ってくれたの?」
「ああ、まぁ……」
「うわー、ほんとに! ありがとう、嬉しい!」
俺の手を取ってぶんぶんと振り回してから花咲は嵐のように洗面台に飛びこんで手を洗い、レンジで炒飯を温めるといつもの席に着いた。いただきますを合図にスプーンで一気に口にかっこむ。その様子を向かい席に着きながら眺めていた。
彼のために作った料理が彼の口の中に消えていっている。それはなんだかとても幸福なことのように思えた。
五分もしないうちに花咲は食事を終えた。
「おしいかった! ありがとう!」と大袈裟なぐらいに俺の料理を褒めちぎってから風呂へ向かう。そろそろ日を跨ぎそうだからなのか、彼はいつもより俊敏に行動している。
シャワーの音を聞きながら俺は電気ケトルで湯を沸かしていた。彼の好みを優先して紅茶ではなくほうじ茶を淹れる。ケーキにほうじ茶の組み合わせはどうかと思ったが、これも俺たちらしくていいじゃないかとも思えた。
風呂から花咲が上がってくるころを見計らって冷蔵庫から取り出したケーキを切り分け、皿に乗せて食卓に移した。ちょうどフォークを並び終えたところでガチャリとリビングの戸が開く。奥からタオルを首にかけたままの花咲が姿を見せ、そこで固まった。
ケーキは彼が誕生日に作ってくれたものにできるだけ似せていた。スポンジに生クリーム、外にはきれいな赤色の苺で中にはスライスしたものが散っている。
スポンジが最後までうまく焼けず、クリームも緩くなっていて、少し不格好ではあったがそれでも皿に乗っていれば一応ショートケーキだと言い張れるぐらいの出来にはなっていた。
「突っ立ってないで、はやく座れ」
「あ、うん……」
ちょいちょいと手招きすれば彼は呆然とした様子で椅子に腰かけた。目の前ではところどころ崩れたショートケーキとほうじ茶が並んで照明の光で艶やかに輝いている。花咲はそれらをじっと見つめてからゆっくりとこちらに振り返った。
「これは…尾形が……?」
「ああ」
「なんで…? 今日なんかあったっけ…?」
「別になにもねぇよ」
首を捻る花咲の様子に鼓動が速まる。夕飯の時のように喜ぶと思ったのに、彼はなぜか訝し気な表情でケーキを見つめては、俺と見比べてまた首を傾げる。
やっぱり突然こんなことするのは変だったろうか、それともあまりにヘタクソだから驚いているのか。
嫌な考えが頭を支配しそうになったその時になにかが視界を横切って思考が止まった。
落ちていったのは雫だ。涙の粒が彼の頬を伝っていって、最期にはぽたりと落ちた。
慌てて彼の隣まで行って震える手で彼の背を撫でた。今日は慣れていないことばかりしている。そう思いながらも涙を流す彼を放っておけなかった。
「なんで泣くんだよ」
「だって…嬉しいから……うれしくて、泣いてるんだよ…っ」
「なら泣くなよ。嬉しいなら、笑えばいいだろ」
お前の泣き顔を見るのは嫌いなんだよ。
ついそんなことを言って彼の瞳に溜まる涙を乱雑に服の袖で拭った。ぎゅっと目を閉じるとその間にもぼろぼろと光の粒が溢れてきて、その度に心臓が悲鳴をあげているようだった。
嬉しくて泣く。
そこまで彼の感情を昂らせたことが嬉しくもあり、泣かせてしまったという事実が悲しくもあり、心が綯交ぜにされているようだった。
ただ確かなことは嫌がっているわけじゃないということだ。それだけは安堵する。
「ほら、泣いてないで食え。まだまだあるんだからな」
「えぅ、ホールケーキつくったのぉ? はじめてなのに……? そんなん、うれしくないわけない……ッ!」
「ああ、おい、泣くな」
こちらがなにを言っても彼はわんわん泣き続けた。そして落ち着いた頃にようやくケーキを一口食べて、それでまた泣いてしまった。
感情豊かなほうだと思っていたが、ここまでとは予想外だ。そこに残業の疲れが来ているのか、彼の感情のふり幅を大きくしてしまっているようだった。
「おいしい…っ。尾形が作ってくれたケーキ、おいしい……!」
「それはもうわかった。一口食べるごとに言わなくていい」
「だっておいしいんだもん。こんな、こんな思いのつまったケーキ食べれるなんて、幸せ者だよ、俺は……っ!」
「もういい加減にしろ…っ」
一切れのショートケーキを花咲はゆっくり味わいながら食べ進めていった。一口口に運び、一口咀嚼するごとにそんな風に大袈裟に褒めるものだから彼の頭を軽く小突くと、涙に濡れた目を細めて本当に幸せだと言うような笑顔でこちらを見るものだから、俺はなにも言えなくなってほうじ茶を呷るしかなくなってしまった。
「ごちそうさま! 尾形、本当にありがとな!」
「まさか全部食っちまうとはな。平気かよ、こんな時間に」
「大丈夫だよ、一日ぐらい。それに尾形の愛情入りなんだから俺が全部食べないとだろ?」
結局残っていたケーキも一人で全て平らげて満足そうにしながらソファに腰掛ける彼の隣に座る。
すぐに肩口に軽い衝撃を感じた。花咲が頭をこちらに預けてきている。いつもなら逆の立場だが今日は残業を頑張った彼のために譲ろう。
そっと頭を撫でてやるとくすぐったそうにくすくす笑いながらもどこか嬉しそうにしている彼の姿にこちらも口元が緩む。
いつも彼はこんな気持ちだったんだろうか。
相手のためを思って作ったものを食べてもらって、満たされた様子の相手が自分にすり寄ってきてくれる。
そのわずかに上がった体温を感じていると、頑張ってよかったと思える。
きっと次もまたなにかしてあげよう、と。
「尾形は本当いつもすごいよ。俺のことなんだってわかっちゃうんだもんな」
首元にすり寄るように顔をくっつけて花咲が呟く。鎖骨まで下りた彼の髪が息で震えてこそばゆい。
「大学の時もさ、一人暮らしが無理なら一緒に住めばいいって俺に言ってくれたでしょ。俺はね、尾形とならきっと二人で過ごすもの楽しいだろうなぁって思ってた。けど急にそんなこと言われたら引くかもと思ってさ、言えなかったんだよね。そしたら次の日にはもう契約決めて鍵持って来ちゃうし」
花咲は当時を懐かしむように遠くを見て微笑を浮かべた。
確かにあの時の自分の行動力には呆れる。断られるかもしれないなんて微塵も思っていなかった、無謀な思い付きだというのになぜか妙な確信があった。
きっと花咲は一緒にいてくれる。不思議とそれを疑うことはなかった。
「最近仕事忙しくてケーキも焼けてなくてさ。甘いものでも買って帰ろうかなって迷ってたんだ、今日。でも尾形が待っててくれるかもしれないし、はやく帰ろうと思って。そしたらエプロン姿でベランダにいたから驚いちゃった。しかも晩飯もケーキも作ったって言うし」
どうしようかと彼の傍で彷徨っていた手を握られ、また心臓がきゅっとなる。そのまま嬉しさを表現するように繋がれた手が強く握られる。離れないようにと俺も握り返した。
「尾形はエスパーだ。俺のこと、なんでもわかっちゃうんだな」
それはお前もだろう、と言おうとしてやめた。
口に出さずとも彼にはきっと伝わっている。
晩飯を作るのも、かわいいエプロンをつけたのも、慣れないケーキ作りに挑戦したのも、全ては誰のためなのかを。
手を繋いだまま、花咲は俺を見上げてくる。薄茶の瞳は引いたはずの涙の煌めきで水晶のように輝いて、その光彩の中に俺を映している。
「俺が今なに考えてるか、当てられる?」
「……これからも傍に居てください、尾形様?」
「すごい、あたりだ」
屈託のない微笑みはそれだけで俺の心を溶かしていってくれる。
その顔が見たかったんだ。俺のしたことで、一番幸せそうなその顔にしてやりたかった。
「これからもずっと一緒にいてくれよ、尾形」
頼まれなくたってそうするに決まっている。それが俺たちの幸せだと改めてわかったから。
繋がった手の温度を感じながら、返事代わりに肩口に寄りかかる彼の額に自分の額を触れさせる。互いの体温を感じながら目を閉じた。
夜は静かに終わりを告げて、柔らかな朝陽が俺たちを包みこむように降り注いでいた。
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